班長のてびき

1.班長とその務め
●君は班長に選ばれたのだ。おめでとう!

 冒険や、作業や、ゲーム、そして世の中でいちばんすばらしいもののひとつである友愛などを、満喫できるすばらしい未来が、君や君の仲間を待っている。よい班とは、何事が起ころうと、肩をならべていっしょに協力してやっていく、よい友達同志のグループなのだ。
“一人のためのみんな、みんなのための一人”これがスカウトの班の精神だ。

 班長<パトロール・リーダー>としての務めはできるだけ楽しむとよい。しかし、班長であることには、単なる楽しみ以上のものがあることを忘れてはならない。

 班長としての最大のスリルは、普通並みの少年の集まりを、ひとつのれっきとした「班」に仕立てること、5〜6人か7人の少年を手助けして、よいスカウトにすることだろう。

 どのような班になるにしても、班作りでは君の班員ひとりひとりが、何らかの役割を果たすわけであるが、何といっても班作りの最大の責任は、君にある。そこで君の指導力、友情と親切心そして模範的なふるまいが、何よりもものをいうのだ。

 正しい指導者のもとでは、どんなに小さな班でも、ほとんど例外なく、班として恥ずかしくない組織になりきるものである。だから、君が班長としての本分を正しく把握して、出発の方向を誤らないようにできるかどうかは、君の努力いかんにかかっているのだ。


●君のパトロール列車

 班<パトロール>がほんとうに列車に似ていると思ったことがあるだろうか?

 機関車が動いている間は、列車もみな動くが、機関車が止まると列車は止まり、もし機関車がレールを外れると列車も脱線し、転覆してめちゃめちゃになることもあろう。

 君は、君のパトロール列車の機関車だ。

 君が真っ先に進めば班員たちも進む。君のスピードが落ちると、班員たちのスピードも落ちる。君が君自身を脱線させたりすると、班はめちゃめちゃになりかねない。

 列車が班に似ているもうひとつの点がある。目的地なしに走っている列車というものは、およそ意味がないし、そんなことはありえない。このことは班の場合にもあてはまる。成果をあげるには、はっきりした目標と、それに到達する方針を持って積極的にいろいろなことをやらなければならない。君自身と、班員たちのために目標を立て、エネルギーを起こしてそれに向かって進む必要がある。


●君自身の目標を立てよう

 君の目標は、自分の班をできるだけすぐれたもの、隊で最優秀のものにすることでなければならない。なぜだろう? よい班を作り上げることによって、班員がそれぞれ健全なスカウトになるのを手助けすることになるし、君自身もまた健全なスカウトになるからだ。

 班をできるだけよいものにするという考えを、君の心にしっかり植えつけて、君の言うこと、なすことのすべてに、君の考えを反映するようにする。そうすれば君は、班員たちもまたまったく同じ気持ちになるということに、ます気がつく。班に対する君の信念と熱意は、他人に広がっていくものである。集会やハイキング、いろいろな計画、善行、それから班員たちの興味〜何かをやることや、何か成果をあげること、あるいはひとかどの人間になることなどに対する興味〜を燃やし続ける手段などの、おぜん立てをするのだ。

 もちろんこのことは、君が「ボス」になってーから十まで自分で計画して、君の周囲の者に命令を下すべきだということではない。それどころか君の班は、小さいながらも、ひとつの民主的グループであり、班員なら誰でも班の計画に参加し、指導を実残し、また自発的活動を身につけるチャンスを与えられているのだ。

 君は指導者、つまり進むべき道を指し示す者になるのだが、しかし皆と力を合わせてやることが肝心だ。これが、班がおこなうあらゆる事柄について、ひとりひとりに熱意を持たせてその役割を果たさせる方法である。、


●君の班員たちを理解しよう

 自分の班の少年たちを理解するということは、君の務めを果たす上で重要なことだ。彼らを理解すればするほど、それだけいっそう彼らを手助けすることができる。君をリーダーとして選んだ事実は、彼らが君を信頼している証拠である。この観点から出発すれば、友人をして被らの信頼を勝ち得ることは、それほど難しいことではないはずである。

 この信頼は、一時にできあがるものではない。君自身、経験ですでに知っていることだが、君がある人を信頼するところまできていないうちに、その人が強引に君を信頼させようとすれば、君は貝のように心の扉を閉じてしまい、長い時間かからなければ、二度とその人を寄せつけはしないだろう。だから、あせることなく、君の班の各スカウトに対して、真の友人になるように努力することだ。そうすれば、皆も君の本当の友人になるだろう。
「友人を持つにはまず君が友人になることだ」

 班員たちを理解するには、班や隊の集会で彼らと顔を合わせるだけでは足りない。彼らについてそれ以上のことを知らなければならないのだ。彼らは何に関心を持っているのだろうか? 趣味は? 希望は? 学校の成績はどうだろうか?
班長として君が彼らの家を訪ねれば、喜んで迎えられるはずだ。両親を知り、また両親に君を知る機会を与えることだ。そうすれば、ハイキングやキャンピングに連れて行きたいときに、よりたやすく両親の援助を得ることができるようになる。進んで協力を買って出る父親さえいるかもしれないのだ。

 そのためには、どんな場合でもじっくり時間をかけ、ねばり強くやっていかねばならない。しかし、決して無駄になることはない。しかもこのことは、班長としての君の務めの一部でもあるのだ。リーダーとなる者は周囲の者を理解して初めて真のリーダーとなれるのである。


●君の示す手本がものをいう

 班を導いていくのに、指導力と理解力はもとより重要だが、君の示す手本は、おそらく何物にもまして重要だろう。君が見てきた、最も優れた班長は、別に見栄えのするような少年ではなかった。彼は乱髪をばらりと垂らした、そこらにいる少年と何ら変わるところはなかったが、いつもすてきな微笑みをたたえていた。

 彼の気力は周囲の者に伝わっていき、彼の熱意はまったくすばらしいものだった。とにかく、彼はその熱意を自分の班の全員に伝え、皆いっしょに働いた。彼が「さあ、やろう」というときは、みんな彼に続いた。歌をはじめると全員が歌った。班の集会やハイキングを計画すると、全員が参加した。彼が隊長に向かって「ぼくたちがそれをやります」と言い切ると、ほんとうに彼を失望させるような班員はひとりもでなかった。

 かつて、ある人が彼の班のスカウトのひとりに、難しい質問をしたことがあった。それは「君たちは、どうしてそんなによく彼に従っているのかね?」という質問であった。そのスカウトはしばらく考えていたが、ゆっくりと言った。「さあ、よくはわかりませんが、たぶん彼はぼく自身がそうなりたいと思うような男だからでしょう」と。

 ここに問題のかぎがある。いやしくも君がリーダーと名のつく者ならば(もちろん君がリーダーでなければ、班長にもなっていないはずである)、君の指導次第で、班員たちの生活に大きな影響を与えることだろう。君が彼らのリーダーであるばかりでなく、その後も長くその影響は残るはずである。彼らは君を尊敬し、君を重要な存在と考え、意識的にしろあるいは無意識的にしろ君のようになろうと努めるのだ。


●正しい種類のスカウトになる

 班員たちが君のやることにならい、君のようになろうと努力するということを知ると、大きな責任が君にかかっていることに気づくことだろう。だからこそ君が正しい種類のリーダーになることが大切なのである。

 そして、正しい種類のリーダーになるもっとも確実な方法は、正しい種類のスカウトになることだ。

 君が、スカウトの「ちかい」や「おきで」を守るのに一生懸命努力しているのを見れば、班員たちもそれにならうだろう。君が日々の善行を君の真のつとめにしていることを彼らに示せば、彼らもまた同じ精神を汲み取るものだ。パトロールリーダーとしての仕事を、君が元気に精力的にやっていけば、彼らもまた協力して元気いっぱいに君に従うものである。スカウト精神にあてはまることはまた、スカウト技能にもあてはまる。君が着実に菊、そして富士の級に進めば、君の班員たちも、いっしょに引きずっていくことになるのだ。

 反対に君が1級スカウトになることすら気にかけないなら、君の班はおそらく現状に満足して、なんら進歩はないだろう。これが、君がいつでも班員よリー歩先んじていなければならない理由である。

 リーダーにとって「やれ」ということばより、「さあやろう」ということばのほうが言いやすい。しかし君が班員たちの進むべき道を示じて、先頭に立たなければ「さあ、やろう」ということばもあまり意味を持たなくなってしまう。

(班長として)
  • 私はスカウト精神にのっとり、スカウト技能を発揮し、率先垂範して班を導きます。
  • 私は私のスカウトたちとともに、班の活動〜集会、ハイキング、善行、特別行事〜を計画しその実践に私の全力を注ぎます。
  • 私は私の留守に班を指揮するように次長を訓練し、ほかの各スカウトにも、班を指導する機会を与えるようにします。
  • 私は私の班員よりも、たえず先に進級するようにし、私の班の各スカウトたちに、スカウトとしての必要条件を教示し、かつそれについてのテストをおこなって、彼らの進級を手助けします。
  • 私はスカウトのあらゆる活動にスカウトの制服を着用して手本を示し、私の班のスカウトたちにも、そうするようにすすめます。
  • 私は班の所定の事務(出欠調べ、班費徴収、その他に)ついて責任を負います。しかし、記録は誰か別の班員に取らせます。
  • 私は皆をほんとうに助けることができるように、私の班のスカウトひとりひとりの友人となるように努め、またその家庭と両親、学校、その他を知るようにとくに努力します。

(隊におけるリーダーとして)
  • 私は班長のためのあらゆる集会には必す出席して、私の務めをおこなうための訓練を受け、隊のプログラム立案における私の役割を果たします。
  • 私は班長会議において、私の班を代表し、会議に対して私の班の希望を伝え、また決定事項を班に持ち帰ります。
  • 私は私の班員を、隊のあらゆる活動に、喜んで時間どおりに規律よく参加させるように促します。


●援助の手をさしのべる

 君の班の少年を、ほんとうのスカウトに育て上げる努力は、君ひとりでするのではない! 君の仕事を君がうまくやってもらいたいと思っている人が、たくさんいるのだ。君の隊長は、君に助言し、君を訓練し、そして実際的な援助の手をさしのべてくれるし、またほかの指導者たちも、心からいつでも君を手助けしてしようと思っているのだ。

 さらに君の班の少年たちの父親や母親たちにも、君がその機会を設けてあげさえすれば、いつでも援助の手をさしのべてくれる。

 班長として君は、まことに楽しい日々を送るはずである。それはスカウティングに入って以来、最も楽しい時期となるかもしれないのだ。


●結論

 要は
  @よいリーダーになること
  A真の友人になること
  B先頭に立って進むこと
 この3点を心に留めて最善を尽くし、そして正々堂々と胸を張って前進することだ。

 君の仕事の大きさに驚いてはいけない。それは大きい仕事ではあるが、君がまともな勇気を持って取り組み、君の隊長やその他の指導者たちがさしのべてくれる援助の手を利用しながら、一歩一歩身につけていけば、りっぱにやっていけるのである。時によっては失望することもあるかもしれないが、同時に大きな満足も味わうはずである。「幸福な市民はよい市民である」と誰かが言った。同様に幸福なスカウトはよいスカウトであり、幸福な班はよい班である。

 君の主な仕事は、班の生活の中で、班員たちが幸福感を----その幸福感は、いっしょに働き、いっしょに物事をやり、よい友人として助け合うことからくるものであるが----味わうのを手助けすることだ、ということをいつも覚えていれば、君の仕事はたやすくなる。班員たちの熱と興味を燃やし続け、彼らを幸福にすることができるならば、彼らをスカウトの“ちかい”や“おきて”の理想に忠実な、真のスカウトに育て上げるのに、君の最善を尽くしていることになるのだ。

「班長のてびき」を読んで
 最近「班長の指導力の欠如している」という話をいろいろなところで耳にする。実際私自身もそう思っていた。「班長に指導力がないから班活動ができない」、「進級が遅れる」、「班長の出席率が悪い」等々・‥。

 しかし、この冊子を読んでみて、根本的な原因を究明することなしに問題を議論していたことに気がついた。それは、指導者が班長に対してその「任務が何であるか」を説明していたのか、任務を全うするための「方法」を教えていたのか、班長がすべきことを指導者が奪ってしまっていたのではないか、ということである。これらを見落として、班制度が展開できない責任を班長になすりつけていたのではないだろうか。

 また、スカウトを評価するときに、技能やレポートばかりを判断材料にしていたが、ほんとうに大切なのは「ちかいとおきてを実践し、人の役に立つ」ということであり、その訓練手法として班制度が用いられているのである。スカウティングにおいては、技能が劣ることはたいした問題ではない。それよりも班制度ができていないことのほうがはるかに重大な問題なのである。

 日本におけるスカウティングの低迷の原因は班長にあるのではなく、私たち指導者にあったのではないだろうか? 私たちは本当に班制度を知っていたのか? 私たちが班制度を正しく理解し実践していなかったことが最大の原因であったのではないだろうか???

 班制度とはいったい何なのか、それをひも解くことがスカウティンクの本質をつかむ手がかりになることを期待してこの書をもういちど読んでいくことにする。

 まず第1章では、班長になった少年がはじめにすべきことが実に簡単明瞭に記されている。
  • まず自分が正しいスカウトになること。
  • 目標を立てること。
  • 班員たちを理解すること。
  • 隊長たち成人の援助を受け入れること。
 これらを実施することが班長訓練の第一歩である。班長たちが最初にこれを理解し実行しなくては班は動き出さない。

 私はここで、班長を“リーダー扱い”しなければならないことに気がついた。私たちはついスカウトたちを子供扱いしてしまう。しかし「班長はパトロール列車の機関車だ」と明言されているように、班長は班を導くためのいわば指導者なのである。「班」や「班長」という言葉が学校などで用いられるようになったためにこれと混同して誤解を生んでいるのだろうか。班長と呼ぶのをやめて「リーダー」と呼んだほうがいいかもしれない。 (「班長」の原語はPatrol Leaderである。)

 「今のスカウトに班活動はできない」というご意見もあるかもしれない。しかし「昔のスカウトにはできていた」とは思えない。できないながらもどうすればいいのか自分たちで考えて活動していたはずだ。指導者はあまり口出ししなかったし、それがあたりまえでもあった。

 もちろん十分な成果はあげられてはいなかったが、それでよいと思う。忘れてはならないのは、グループワークを経験することによって人格や能力を高めること、それが班制度の目的である。“できる、できない”は関係ないのである。できなくてもよい。やらせることが大事なことである。その結果スカウトに進歩があれば、彼のスカウティンクは成功したのである。指導者の役割は、スカウトが思う存分スカウティンクを実施できる環境を整えることである。