「ボーイスカウト十話」について

山田利雄



 「ボーイスカウト十話」は、故三島通陽(みしまみちはる)総長が、毎日新聞の求めに応じて、昭和40年2月25日から同3月7日にわたって、同紙に連載執筆されたものです。
 総長は、この年の4月20日に昇天されましたので。従って、この「ボーイスカウト十話」は遺稿となったわけですが、内容は日本のボーイスカウト運動を身をもって推進された三島総長の、日本スカウト史の粋とも、あるいはエピソードとも言えるもので、「ボーイスカウト十話」は「ボーイスカウトとは」の意味にひっかけています。古い指導者の方は、あるいは断片的にお話を承った方もおられると思います。一つ一つのお話を読んでまいりますと、お話上手の三島総長の温顔が目に浮かんでくる方もおられると思います。
 どうか、この文章を玩味されて糧とされんことを念願いたします。
 なお、若い読者の方々のために、三島通陽先生のひととなりを知っていただくために、「遺稿集・三島通陽」に渡辺現総長が執筆された“序にかえて”の中から一部を引用させていただきました。

「憶えば先生は、まことに多才な人であった。若くして創作文学に手を染められ、また演劇映画など多方面にわたる芸術活動をされていたことは、三島章道の筆名とともにひろく世に知られているところである。
 他方、長く貴族院議員として、戦後は参議院にも籍を置かれて政界に活躍され、主として青少年教育の発展に力をいたされ、児童憲章、子供の日の制定などに多くの業績を残された。
 しかし、何といっても先生が生涯の仕事として取り組まれ、最後まで熱意を注がれたものは、ボーイスカウト運動であろう。先生は、この運動を純粋な形で最も早くわが国導入された一人であった。大正11年、後藤新平総長を中心とした全国的な組織の少年団日本連盟が結成されると、副理事長に就任され、以来一貫してこの運動のために献身的に力を尽くされたのである。
 戦時中一時、この運動は中断のやむなきに至ったが、戦後とともに熱心な同志の間に再建運動が起こり、先生は再びその中心となって、この運動の発展のため懸命の努力をなされたのであった。
 敗戦によってすべてを失い茫然自失する当時の社会環境の中から、各地の同志を糾合して組織を再建するまでには、内外の関係者の大きな協力などがあったとはいえ、容易なことではなかった。組織の運営に当たっても、当時経済的に弱体なわが国の社会から十分な支援を得ることは難しくしばらくは連続する財政的な危機を乗り切って進まなければならなかった。
 昭和26年、全国総会においては推されて総長に就任された先生は、ますます大きな責任を負って、営々辛苦を続けられ、ついに今日の盛んなスカウト運動の基礎を築かれたのである。このような先生の数々のご功績は、この運動に携わる人々に永く感謝され、深く心に銘記されるものである。」

(−遺稿集の“序にかえて”から−)






ボーイスカウト十話(1)

天皇陛下

三島通陽


 日本のボーイスカウト運動の40余年の歴史をふりかえってみると、一方はいろいろの人々から恩恵を受けたことをけっして忘れてはならぬが、また一方には、様々な方面からの迫害も受けた。その最たるものは、軍部の硬派で、スカウト運動の国際性をきらって、ついに政府をして解散を命じさせた。これらの苦難のなかで、これまで成長した大きな理由は、まず創始者ベーデン-パウエル卿の天才的な、そして魅力的な教育法と、それに魅せられた多くの人々の信念的な協力一致であるとでもいえようか。
 では、この運動がどうして日本に伝えられ、そしておこったか。
 天皇陛下はお若いころ、よく側近の人々に「わが国のボーイスカウト運動に火をつけたのはわたしだよ」と冗談のように、おっしゃったそうだ。
 この話を伝え聞いた当時、われわれはこおどりして喜び、公開の席などで、これを言ったりすると、当時のやかましやの先達(せんだつ)佐野常羽に「袞龍(こんりょう)の袖(そで)にすがって、この運動をひろげようとは恐懼(きょうく)の至りで・・・」てなことでしかりとばされて、これは禁辞となっていた。が、陛下のこのご冗談は、まんざら火のないことではなかったのである。

 陛下が皇太子でご渡英になったのは、大正10年で、その5月17日にベーデン-パウエル卿を謁見(えっけん)された。卿はスカウト精神と、その教育法についてお話し申し上げたが、なかでも彼は、スカウト教育は、人に信頼される人間をつくること、その精神の究極の目的は、世界平和にあることを強調し、また彼が日本精神に心から傾倒していること、それを取り入れたコトを御礼もうしたいといった。げんに卿の多くの著書の中には、いたるところで日本精神をほめている。
 そして、殿下は21日には、エジンバラ市のスカウトラリー(集会)にお出になった。
 殿下の、この時のおことばを、当時の毎日新聞社出版の「御外遊記」(二荒・沢田両氏共著)の中から抜粋すると−−−(原文のまま)
 「・・・・・予ハ斯ノ如ク美シキ精神ヲ保持シタル本運動ガ、当然収ムベキアラユル成功ヲカチ得ルコトヲ切ニ祈ルト、最近日本ニ於イテ同ジ目的ヲ以テ起コリタル少年団運動ガ、時ヲ逐ウテ、今日此所ニ見ルガ如キ進歩ノ域ニ達シ、此運動ノ目的トスル貴キ使命ヲ実現スルニ協力センコト望ムモノナリ」
 このおことばを、はるかに日本で聞いたわれわれは奮起して、その翌年4月13日に少年団日本連盟が発足したのだから、このおことばで火がつけられた、とは冗談以上の真実である。
 この時、ベーデン-パウエル卿は、この殿下のおことばに感激し、ボーイスカウトの最高功労章、シルバー・ウルフ章を、殿下に贈呈した。これは日本人として、いや東洋で第1号の贈呈であった。ところが、この功労章は、皇居の戦災で焼かれてしまった。戦後それを伝え聞いたパウエル未亡人や英国の古いスカウト指導者たちは、これを悲しんで、早速再交付してきた。

 戦後、進駐軍内のスカウト出身者の助けで、他の国際団体にさきがけて、日本ボーイスカウトは再建された。
 その再建記念の大会は、皇居前広場で行われ、昭和22年9月24日には、当時占領下のドウリットル公園(日比谷公園にこんな名をつけるとはGHQの失政だが)で、ラリーが行われ、天皇、皇后両陛下と、皇太子、義宮両殿下がお出になり、陛下は、ほんとうにおうれしそうだった。久しぶりにユニホームを着て、元気いっぱい行動する日本少年の姿をニコニコとご覧になって、陛下は「よかったね。こんなに美しい平和な子供の運動が、こんなに早く再建できて、ほんとうに、よかったね・・・・・・」とお顔をほころばせてお喜びになってのおことばに、私たちは、40年の苦労も吹きとんだ。そして、そばにそれを聞いた白髪の年寄りの指導者たちの中には、そっと涙をふいたものが、何人かあった。

(スカウティング誌 '80.4 より転載)






ボーイスカウト十話(2)

乃木希典

三島通陽


 日本に初めて、ボーイスカウトを紹介したのは、牧野伸顕と北条時敬と、乃木希典(海軍大将)の3人である。
 牧野は元来、寸暇を惜しんで、新刊洋書を読む趣味があったが、ボーイスカウトが英国にできた翌年の1908年に、もうその本を得て読み、その神髄をつかんで、魅力を感じた。これは義兄のベルギー大使秋月左都夫が、実地に見て感心し、文相の牧野にその資料を送ってよこしたのであった。牧野は文部省に、文献や用具服装など取り寄せて、研究を命じたが、当時の文部省は学校教育で手いっぱいで、これを理解し研究しようとするものは出なかった。
 それで牧野は、その翌年、欧州へ教育視察に行く北条時敬(広島高師校長)にこの研究も依頼した。さすが北条は、これに興味を持ち、資料を集めて帰り、広島高師の教授たちにこの研究をすすめたが、これもやっぱりついてくる者がなかった。それで北条は、その附属中学の少年たちにスカウトの話をしたところ、さっそく彼ら自身でそれらしいものをつくり、野外訓練などを試みたがるので、北条はめんどうをみてやった。短い間だったが、このなかから、のちにボーイスカウトの実践的指導者として、その指導と研究に一生をささげ、いまや老躯(く)病に倒れ、片目の視力を失いながらも弱視の独眼で、天眼鏡をたよりに、まだ研究に余念のない求道者「中村 知」が出ている。

 が、もうひとり、少し突っこんで、まねらしいものをしたのは、乃木学習院長であった。
 乃木は英国のキッチナー元帥の心の友であった。このキッチナーはまたベーデン-パウエル卿の心の友であったので、こんな関係から、このボーイスカウトの資料写真などが、乃木の手のはいり、深くこれに興味をもった。
 これよりさき、乃木は旅順の戦いで、多くの部下を失い、たびたび申し訳ないとしょんぼり凱旋(がいせん)してきたとき、明治天皇は、乃木の心を見抜かれたか「乃木、お前はふたりの子を失ってさぞさびしかろうから、たくさんの子をさずけてやろう」とて、学習院長を命ぜられた。

 乃木は感泣して、自分の家を捨て、学習院の中、高等科を全寮制度とし、自分も寮に泊まりこんで、身をもって範を示す体あたりの生活指導をした。1年生がはいってくると、その夜からまずいっしょにフロにはいり、全生徒の名と性質を覚え、時には母親のように優しく親切で、時には父親のように厳格で質素を旨とし、時にはユーモアもあって、それは楽しい生活指導であった。私はこの時、1年生で指導を受けた。そのひとつの特徴は、美しい助け合いで、級友はみな実に仲が良く、それが老人の今日までつづいているのは、乃木の指導のたまものと、みないまでもいい合っている。
 さて、この寮生活で生徒は、カーキ色のボーイスカウトと同じ服(ただしネッカチーフと半ズボンはなかったが)を着せられ、これを作業服と呼んだ。それから、乃木はキャンピングをやってみたかった。しかしその頃日本には小さい手頃のテントがなかった。ところが乃木は、旅順の戦利品の中に、かっこうなテントがあったのを思い出し、それを陸軍省から払い下げてもらいあとはそれをまねて作り、夏の片瀬海岸の遊泳の時、やらせた。わが国初の青少年キャンピングである。
 いまからみると、実に幼稚なものだったが、大自然と親しみ、自らの生活環境を築き、協力一致と相互扶助の精神で、千変万化の大自然に取り組みつつ、楽しいしつけの生活をしていく青少年キャンピングのよさは十分発揮されていた。

 乃木は英王の戴冠(たいかん)式に参列した時も、キッチナーの案内で、スカウトラリーを見学し、パウエル卿とも語り合い、帰朝してからは寮の夜話によくボーイスカウトの話をした。この時の小さな生徒の中から、いま日本のこの運動の中心人物になっている者は10人以上いる。乃木は自分は何をやっても失敗ばかりで申し訳なかったとつねに思い暮らしていたようだが教育家としてはりっぱだったと教え子は信じている。

(スカウティング誌 '80.5 より転載)






ボーイスカウト十話(3)

後藤新平 最後のことば

三島通陽


 日本で初めて少年団ができたのは、大正2,3年ごろからで、乃木の部下だった伊崎少将は乃木にすすめられていたが、乃木没後大正三年に小柴博らと発団式をあげた。
 このころ、京都の中野忠八ら、静岡の尾崎元治郎、深尾韶らと、あちこちで少年団をつくりはじめていた。それが皇太子の英国でのおことばを聞いて奮起して、静岡で代表者が集まり、少年団日本連盟の結成をみたのは大正11年4月13日であった。総裁(のち総長)には、後藤新平子爵を迎え、理事長には、ご渡英のお供をした二荒芳徳が決定した。

 しかし、そのころの少年団のなかには、ボーイスカウトもあったが、いわゆる子供会のようなものから、兵隊ごっこのようなものと、種々雑多であったから、後藤はまずハッキリとボーイスカウトで行くとの方針をきめ、ボーイスカウト世界事務局に申請登録をして、ここではじめて世界の一員となって出発した。
 それで、後藤は、その年の8月、コペンハーゲンで開かれる第2回世界ジャンボリーには、まず各地から指導者を多く出して学ばせようとの方針を決めた。派遣団長には若かった私が任命されたので、副団長には尾崎元治郎、スタッフには久留島武彦、中野忠八などの年配者をつけ、顧問には佐野常羽を任命し、24名で行くことになった。佐野は自分の団の子3人を自費でつれて前便で渡英し、ギルウェル訓練所で訓練のうえ、参加した。これらの派遣員は全部帰ってからそれぞれ死ぬまでこの道に尽くした。なかでも佐野は、ロンドン郊外にある、パウエル卿直伝の指導者訓練所に入所して訓練を受け、卿とも親交を得て直接教えられ、研究を続けて帰ったので、後藤は彼を初期の日本の指導者訓練所長にして研鑽を続けさせた。
 後藤はこのようにパウエル卿の奥義を研究させるかたわら他方、日本の古来の郷中制度などをも研究させたが、自らも鹿児島に行って、じいさん、ばあさんを集め、郷中の話を聞きただした。私はそのそばにいたのだが、なにしろ、後藤はズーズーの東北弁だし、じいさんたちは、薩摩弁ときているので、お互いに話が通じない。それで私がいちいち通弁をしたこともあった。

 晩年の後藤は、私のみるところでは、スカウト運動に一番熱心だった。「後藤さんも、もっと早く総理大臣になるようなことをしたらいいのに、ガキ大将とは・・・」といって笑われても、いっこうに平気で、ユニホームを着、日本中を飛びあるいた。あるいなかのキャンプで、サラがないと子供たちがキャベツの葉にごはんを盛って出したら後藤は「家にあらば、筍(け)にもる飯を草まくら、旅にしあれば椎(しい)の葉にもる」アハハハと、万葉の句をいってさもうれしそうに自然の子にかえった。
 後藤は昭和4年4月3日、自邸に集まったスカウトたちに囲まれ、うれしそうに遊んだうえ、夜行で岡山に講演に向かったが、車中、脳溢血で倒れた。京都でおろされて京都病院に運び込まれた。後藤重体の知らせで、側近者やわれわれも京都に集まった。はじめ京都病院は満員で病室もなくやむなく受付に寝かした。院長が心配して、よい病室を空け、移そうとしたが、もう口をきけぬ後藤は、首をふってイヤという。
 それで、みんなで相談の結果、スカウトに抱かれてなら引っ越すだろうと、私に白羽の矢が立った。私は「先生、引っ越しをしましょう」というと首をふる。「いや、スカウトが先生を抱いて行きます」というと、ニッコリしてうなづいた。それで京都団長の中野忠八と、10数人のスカウトが後藤を取り巻き、みんなでそっと抱いてはこぶ。
 後藤は、はじめはうれしそうにひとりひとりの顔をみつめていたが、次第にホロホロ涙を流しだした。
 後藤は、東京をたつ前、私を近くに呼び
「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」
といったのを思い出した。私も後藤を抱きつつ涙が流れた。
 後藤は4月13日にこの世を去った。
 思えば、これが後藤総長の最後のことばだったのである。

(スカウティング誌 '80.6 より転載)






ボーイスカウト十話(4)

文明病とキャンピング

三島通陽


 日本にボーイスカウトができたてのころ、われわれがユニホームを着て道を歩くと、「ジャンボリーが通る」という。後藤新平がユニホームで地方に行くと「後藤さんのジャンボリー姿」と新聞がかく。
 ジャンボリーとは、もともと、アメリカ・インディアンのことばで祭典のようなもので、これをパウエル卿が、スカウト運動に使って、いまや世界語になった。
 ところで、近ごろは「ジャンボリー・スカウト」という言葉がある。それはジャンボリーだけ出て、あとはサヨナラのスカウトで、これは全くけいべつされる語なのだが、それは子供が悪いのではない。指導者が悪いのである。ジャンボリーはたしかに、子供にとって楽しい。またためになるものだが、そこまでくる日常の継続した訓練こそ大切である。

 もうひとつ、スカウトというとすぐキャンピンクを連想する。それくらいスカウティングとキャンピングはつきもので、もっとも重要な訓練のひとつである。しかし、これとて、これだけがスカウト訓練のすべてではない。
 キャンピングなき、スカウティングは考えられない。しかしキャンプへ行くまでの日常訓練、また終わってからあとの訓練が大切である。
 キャンピングはひとつの仕上げといわれる。秋から冬、春夏へと、進級制度を生かしたプログラム、いいかえればカリキュラムが基礎となって、ここにキャンピングでその仕上がりとなり、その間にも心身がみがかれるべきである。

 小さい少年のキャンプを定義して「少年を、家庭、学校より隔絶して、大自然の中に、新しい生活環境を、自らの手で築き上げ、指導者が少年と寝食を共にして、生活指導する」といったことがあったが、初歩の少年には、そこへゆくまでのプロセスが、指導者にも少年にもよき勉強であらねばならぬ。それを近頃、キャンプ流行で不用意に飛び出す人々をよく見かけるが、ハラハラさせられることだ。心構えなきキャンピングは逆効果となる場合が多い。
 またある友人は「キャンピングとは人間と自然とのコンペティションだ」と定義したが、おもしろい表現だ。自然が人造りをするとは、日本でも古来、考えられて、修行の大道場とされた。役行者(えんのぎょうじゃ)などは、それを行ったもっとも偉大な先達だが、われらは、それを青少年に向いたように楽しさのなかでやろうとするのである。
 いまや、人間は世界的に、文明病にかかっている。これに反省を与えるのは、大自然のふところにはいってみることである。
 皮肉作家のジェームス・バリーの戯曲に「アドミラブル・クライトン」というのがある。これは、文明人が大自然の中に投げ出されたときの姿を、皮肉ったものだ。そのあらすじは、英国のローム伯爵は、議会でも、世間でも、もてはやされた人物で、人間は平等だとの考えをもった貴族である。
 彼には3人のお姫様がいて、長女は学問があるのが自慢の種、2女は美人であるのを鼻にかけ、3女は素直な娘である。この一家は、忠実で素朴な従者クライトンと口達者なオッチョコチョイのアーネストをつれてヨット旅行に出かける。
 大暴風雨にあって、船は難破し、無人島にはい上がる。そうなると、貴族も、学問のある人も、美人も、ここでは役立たず、クライトンひとりが、立ち働いてみなを生活させる。

 木の繊維でナワをない、衣をつくり、家をつくり、魚と獣を獲り、マッチがなくとも木と木をすりあわせて火をつくる。クライトンの力でみなが生活すると、主従転倒の位置となり、3人の娘がクライトンに恋するが、彼は3女と結婚しようとしたトタン、英国から軍艦が助けにきて、みなを本国につれ帰る。
 アーネストはクライトンの手柄をとって、すべて自分がやったと宣伝するが、クライトンは平然として、また元の忠実な従者で過ごす。これには文明病への風刺がある。

(スカウティング誌 '80.8 より転載)






ボーイスカウト十話(5)

三指敬礼か五指敬礼か

三島通陽


 初代総長後藤新平の没後、残された子供たちがかわいそうだと、後藤の友、斎藤実が第2代総長となった。そして初めて久米川のキャンプに来た。当時の久米川は、よい森林で、まん中に広場があり、子供のキャンプ・サイトとしては好適だった。(近ごろ、この辺に行ったら、森のかげさえなく、工場や市街地に変わっていてガッカリした)
 さて、そのとき、数千の子供たちが広場に集まり、まず斎藤の祝福を受けた。私が先導をしていて、ウッカリ、土バチの巣をふんだ。怒ったハチどもは、次に歩いてくる斎藤に襲いかかり、半ズボンから、身体の中にはいり刺しまくった。
 しかし、斎藤は眉も動かさずニコニコして祝福をすませ、壇上で訓辞をしそれからサンタクロースのように子供らと遊んだ。帰りがけに「おれのサルマタの中にハチがいる」というので小さいテントに入って裸にすると、急所まで刺されていた。
 この話は、すぐに子供らに伝わった。「僕らのこんどの総長は強いぞ」「えれーぞ、急所をハチに刺されても平気で、僕らと遊んでくれた」と、やんやのかっさいをおくった。
 この斎藤は、2.26事件で、青年将校の凶弾に倒れた。そのころから、軍部はますます横暴になってきた。

 第3代は竹下勇がなった。スカウト運動もこのころから、軍部の中の硬派の圧迫が激しくなってきた。それはスカウトの国際兄弟主義が気に入らぬのである。
 寺内寿一中将が大阪の師団長になったとき、スカウトの三指敬礼をやめよと文句をつけた。大阪のスカウトはがんとしてきかぬので、参謀長山下奉文は、軍略をめぐらした。
 それは、スカウト内部の分解作用である。軍部が羽振りがよくなると、それにおべっかをつかう人々もできるので、その連中をそそのかして、三指敬礼をやめさす運動が始まり、三指礼はユダヤの敬礼たとウソの宣伝をした。少年団の内部に、国粋派と国際派の2つにわかれケンカをはじめさせ、全国にもそれが波及して脱退者が出てきた。

 それで「寺内さんも、そんなにもののわからぬ人でもあるまいからひとつ談合をしてみよう」ということになり、スカウト指導者の理論家、京都の中野忠八(現理事長久留島秀三郎の実兄)は、師団司令部に寺内師団長をたずねると、寺内は幕僚を従えて、快く会ってくれた。
 中野は、三指敬礼の由来から説きおこしこれはスカウトの3つの誓いから出ていること、世界中の同志のサインで、外部からの圧力では変えられぬことを堂々と説明した。
 寺内は中野の理論に感心したらしく、あとで軍人仲間に中野をほめたそうだ。しかし、そのときは幕僚の手前、寺内は「わかった。しかし、この五指敬礼は、天皇陛下のご命令だから、やれ!」といった。
 中野は「それは軍人へのご命令でしょう。われわれも軍人になれば、もちろん五指敬礼をします。また鉄道職員ともなれば五指敬礼をします。しかし、スカウト同士は、三指敬礼を変えられません」と言い切り、どうやら議論では中野が勝った形となった。
 すると寺内は「三指敬礼はカジカンデイルようでいかん。これをみろパッパッ」」と五指敬礼をやった。中野は「ガジカンデイマセン。このとおり。パッパッ」と三指敬礼をやりかえした。これでもの別れになった。

 軍部はそれで手をかえ、政府に手を回して少年団日本連盟なぞ、すべての青少年団体を、発展的解消との名の下に、体よく解散させ、ひとつに統合して、大日本青少年団を作ることになった。
 われわれは昭和16年1月16日、他日を期して解散式を行った。この大日本青少年団は、歴代の文部大臣が団長となることになったが、一体青少年団運動なぞ、役人の片手間でやれるものではない。しばらくして消え失せてしまった。

(スカウティング誌 '80.9 より転載)






ボーイスカウト十話(6)

プログラム・ピープル

三島通陽


 戦前、歴代の文部大臣を団長とする大日本青少年団は発足したものの、すぐふらつき出した。こんな運動は、役人や大臣の余暇でやれるものではないからである。それでこんどは、大政翼賛会の翼下にはいって団長は鈴木孝雄大将がなった。鈴木はりっぱな人格者だったが、組織としてはナチスのヒットラー・ユーゲントの組織をまねたもので、もっともよくないゆき方だったと思う。
 いま、世界のボーイスカウト運動には「政治と混同しない、一政党派の宣伝をこの運動の場でしない」という申し合わせがある。また、「民族や皮膚の色で差別をしない、みな同胞だ」との申し合わせもある。
 つぎに、政府とボーイスカウト運動との補助金のことで考えてみると、新興国のなかには、政府の丸がかえというものが多いが、これはどうも成績があがっていない。こういう運動は、民間のボランティア運動として自主的にやらせ、ヒモつきでない補助金を出している国がもっとも多くかつ成績もいい。
 その中で政府の補助を全然受けていないで、しかも、世界で一番人数も多く、また金持ちなのはアメリカのボーイスカウトである。もっとも精神的には、国会は法律まで出して大いに保護している。なぜ金持ちになったかというと、初めは多額の寄付金もあったが、いまでは需品部(代理部)の収入である。これは安くて良い品を全米のスカウトをはじめ一般にも売っている。よいメーカーとタイアップし、デパートとも結んでいる。そのほかに「赤い羽根」からの収益もある。その収入の多くは、専従職員の人件費に使われる。スカウト運動はどこまでもボランティア運動だが、その中に専門家ができると専従職員として引き抜き、これらは次第にその数を増し、いまでは5千余人もいて、特別の訓練をさせ、全国に配し、どこまでもボランティアを表に立てて、縁の下の力持ちとなって、推進させる。これが全米のスカウト数を増していまでは7百万近くとなり、世界のスカウト数の、5分の4以上を占めた大きな原因である。

 こういう運動の指導者には、プログラム・ピープルとアドミニストレイティブ・ピープルと2つが必要で、その両者が、助け合い、組合わさってこそ、運動は推進する。
 プログラムなき青少年運動は、長くもたない。さきごろ,数カ所の都市で「××少年団」というのを都市当局が作り金を出した。1年くらいは、ハデにやっていたが、2〜3年してみな消えた。その指導者にプログラム・ピープルがいなかったからであった。も一つこの少年団の作られた動機が感心しない。何か団体なぞに奉仕のために作られた。小さい子供には「奉仕のための奉仕」はよくない。どこまでも「教育のための奉仕」でなければならない。しかし青年は違う。近ごろのワーク・キャンプなぞは大いによろしい。ところで、団体のサービス・ボーイに使って、あとはサヨナラでは子供こそ迷惑なことである。大切なのはその連続したプログラムにある。それをアドミニストレイティブ・ピープルが、行政、管理を受け持って行うのである。私は他の友好団体の批判をしないことを、建て前にしてきたが、近ごろ多くの青少年団体ができるので、これは、ちょっと老婆心での一言として許されたい。

 我々の先輩、佐野常羽は、指導者には「実践躬行、精究教理、道心堅固」の3つが鉄則だといっていた。十余年前、私が、戦後はじめての世界会議にいく時、八十余歳のかれに、この英訳を求めたところ
 “Activity First”
 “Evaluation Follows”
 “Eternal Spirit”
と訳した。とにかく実行が第一だ、そして、それを再検討し理論研究が必要、そしてさらに理想の精神、筋金入りの根性が大切だという意味に訳したところ、おもしろい味があると思った。要はデスクトップ・プランでは、この運動は成り立たないということである。よきプログラム、次はその実行、そして継続ということである。

(スカウティング誌 '80.10 より転載)






ボーイスカウト十話(7)

無名スカウトと無名戦士

三島通陽


 1909年の、霧に閉ざされた冬の夕暮れ、ロンドン郊外の駅に、1人の紳士が、地図と旅行カバンを持って、汽車から降りた。紳士は行く先がわらなくて困っていた。キビキビした少年が現れたので、紳士は道を訪ねた。少年は
 「私が案内しましょう」
とカバンを持ち先に歩いた。目的地についたので、紳士は、銀貨を出しチップとして少年に与えようとした。少年は
 「私はボーイスカウトです。お礼はいただきません。私に一日一善をさせてくださってありがとう」
とニッコリしてヤミに消えた。
 どの国の少年も、こんな時は喜んでチップをもらうのに、それを断り、逆に礼をいって立ち去るとは・・・・・紳士は驚いた。ボーイスカウトだから、といったが、それは何であろう。有人に聞くと、パウエル卿が昨年はじめてつくった少年運動だと答えた。紳士はボイスという有名な出版業者だった。ボーイスカウトについての書物を全部買って、米国に帰り友人と話し合い、スカウト運動が米国に発足したのは、1910年2月8日のことであった。

 15年後には、全米にこの運動がひろまりその数は100万人を越した。米国スカウトは、その功労者を表彰することによって、いろいろ考えてみると、第1は、ボイスを案内した英国少年だということになり、英国スカウト本部に頼んだり、人を派遣したりして探してもわからない。名乗ってほしいといっても出ない。それで米国側では、協議のすえ、米国スカウト功労章のバッファロー(野牛)の形と同じ銅像を作り「日々の善行を努めんとする一少年の忠実が、北米合衆国にボーイスカウト運動を起こさせた。アンノン(名の知れざる)少年のために」と書いて、贈ることになった。
 1926年6月4日、ギルウェルの森(−これはボーイスカウトのメッカであり、指導者訓練の総本山の道場−)ともいうべきところで厳粛に、贈呈式が行われた。当時の皇太子プリンス・オブ・ウェールズがスカウト制服で受領したが、その時、たまたまギルウェルに学んでいた日本人の佐野常羽が立ち会った。その銅像は、今でもギルウェルにある。

 つぎに1951年、わが国ボーイスカウトが再建後、初めて世界会議に出席の帰途、私は米国に回り、本部をたずねて、わが再建への助力の礼をのべた。すると話を終わらぬうち、ジャック博士(米国スカウト総局長)は「三島さん、お礼はこっちで申したい」と話したのがこのアンノウン・ソールジャーの話である。
 太平洋戦争の末期のころ、南太平洋の、小さい島で、日米両軍が、死闘を繰り返していた時、重傷で倒れた米兵の目に、一人の日本兵が銃剣で突っ込んでくるのが見えた。重傷で動けず、目を閉じたら、気を失ってしまった。
 やがて気づくと、日本兵はおらず、側に紙切れがあった。米国赤十字に助けられてから手紙を読むと「私は君を刺そうとした日本兵だ。気味が三指礼をしているのを見て、私も子供の時、スカウトだったことを思い出した。何で君を殺せよう。傷は応急手当をした。グッド・ラック」と英語で書いてあった。その米兵はスカウトだったので、死せんとするにあたり、無意識に三指礼をしていたのである。ジャックはこの話を日本人に聞かせたら怒るかと聞いた。私はそんなことはない。日本武士道は、戦闘力を失った敵にむごいことをするなといわれ、また敵ながらあっぱれという言葉もある。双方の戦士にこの言葉が与えられるだろうといった。ジャックの求めで、帰国後この戦士を捜したが、未だに見あたらぬ。戦士したのであろうか。ジャックもさきごろなくなった。しかしこの無名戦士の話は長く消えぬであろう。

(スカウティング誌 '80.11 より転載)






ボーイスカウト十話(8)

ローランド・フィリップス

三島通陽


 わが国の青少年団体には、グループ・ワークということが、もっとも大切とされてきた。これは大変よいことである。米国の学者が言い出し、YMCAなどで研究されてきた。しかし、これが叫ばれる以前に、ボーイスカウトには、形態においてはこれに共通し、少年には適切な方法で、すべての訓練および生活指導に適したパトロール・システムというものがある。
 このパトロールというのは、字のごとく巡邏(じゅんら)からきているのだが、これは班別で、観察推理と相互扶助の練習を行うハイキングである。スカウトの訓練は、このパトロール、すなわち「班」が中心になって、パトロール・システムと呼ばれ「班別教育」と訳している。天才パウエル卿の考案によるものだか、この方法を立派な本に書いたのは、ローランド・フィリップス氏。当時は青年で、初版は1915年に出た。パウエル卿も「パトロール・システムはスカウト教育の1つの道ではなく、唯一の道だ」とその本の序文に書いている。

 ローランド・フィリップスのことを書いてみよう。
 彼は英国の貴族の家に生まれた。パウエル卿がボーイスカウトを創設したころ、そのスカウトとなった。イートンに学び、オックスフォード大学を出ると、単身ロンドンのイーストエンドのスラム街に飛び込み、小さな家を買って、クラブハウスのようなものに改造し、その辺の少年たちを集めて、ボーイスカウトをつくり、隊長となって指導した。その辺の子供らは、不良少年として有名だった。しかし、彼の指導によろしきを得手、次第に立派なスカウトになってゆく。
 この時、第一次欧州大戦が勃発した。英国の貴族というものは、国難にあたっては真っ先に進んでゆく伝統がある。かれも従軍を志願した。
 彼は陸軍大尉に任命されたが、配属された連隊の名がおもしろい。近衛火縄銃連隊というのである。タンクや機関銃が兵器なのだが、昔有名だった連隊名をそのまま使っているわけだ。英国人は伝統を好むからだ。
 フィリップスは自分の邸宅を売り払い、その金を全部もって、日ごろ友人の集まっている朝食会にやってきた。「私はあすから、グレイト・アドベンチュア(大冒険)に出かける。おそらく生還はできぬだろう。そこで君たちに頼みがある。イーストエンドの子供たちのことだ。この金でよい家を建てて、あの子らを次々と教育してくれ」といった。友人たちのスカウトリーダーは「よし、引き受けた。安心して行け」と答えた。

 彼は真っ先に進んで、真っ先に戦死した。彼の墓は、フランスの当時の最前線アルバートに他の英軍人とともにある。彼の墓には花がたえないという。
 友人たちは、その金でかれの設計によるりっぱなスカウト・ハウスを作り、これを名付けてローランド・ハウスと呼び、次々と子供らを教育して、りっぱ人物が生まれた。
 ローランド・ハウスには、彼の用いていたものが今でも陳列されている。彼が涙とともに子供を訓戒した、涙のついた机もある。

 1963年、ギリシャにおける世界ジャンボリーに、久留島秀三郎を派遣団長として、135人の日本スカウトをつれて参加した帰途、英国に立ち寄り、このローランド・ハウスに連れて行った。私もいたので、彼の話をしてやった。日本少年も感激してた。そのなかの1人の少年がいった。「先生、ここらがスラム街だと言われるが、こんな立派な家ばかりです」「よいところに気がついた。昔はスラム街できたない家ばかりだった。フィリップスとその友人のおかげて、まず子供がみんなよくなり、りっぱに成長した。大人も感化されて、よくなって、みんなこんなりっぱな家に変わったのだよ」「なるほど、スカウト指導の力は大きい。僕らもいまにやるぞ・・・・・」

(スカウティング誌 '80.12 より転載)






ボーイスカウト十話(9)

ハイキングの妙味

三島通陽


 ハイキングという言葉は知っていても、この語源を知っているものはまずない。
 ハイクとは、スコットランドの古語で、仲良く歩くという意味で、もう死語になっていたものを、パウエル卿が、スカウトの「訓練の旅」に使って、それが世界に流れたのである。仲のいい友と協力する旅ほど愉快なものはない。昔の巡礼が、一人で歩いても背中に同行二人と書いたのも意味がある。
 およそ旅ほど、よい修養の道場はない。自然に抱かれ、世態人情を知り、おのれを発見する。それでスカウトのハイキングにも種々多様のやり方があるが、人造りへの一つ道なのである。しかし、これはわが国では、古来行われてきたことである。雲水、托鉢(たくはつ)、行脚、巡礼、お遍路、武者修行など、みな一つの修養のためのハイキングであった。宗教家の中には、実に偉大なハイカーがたくさんあった。弘法大師、西行法師なぞ、頭のさがる人々である。

 しかるに、今のわが国のハイキングは、あまりにバカンスのためのみと考えられ、自然をこわし、自己を汚している者が多すぎる。学校の修学旅行までが、そうである。修学旅行はよき生活指導の場なのに、指導者が悪いので、高校生が酒に酔って乱暴をしたり、中学生を寝かさず夜中にさわがせ、翌日はフラフラになってけがをするなど言語道断である。
 わが国の昔の「行脚の心」は決してそんなものではなかった。ここに俳聖芭蕉の「行脚の掟」の中から二三紹介すると「一宿なすとも、故なきに再宿すべからず(これは旅には変化が必要との意)。樹下石上に臥すとも、あたためたるむしろと思うべし」「腰に寸鉄たりとも帯するべからず、すべてのものの命をとるとなかれ」「衣類器財相応にすべし、すぎたるはよらず、足らざるも然らず、ほどあるべし」「主あるものは、一枝一草たりとも取るべからず、山川江沢にも主あり、つとめよや」「夕を思い旦(あした)を思うべし(これは日々のプランをよくたてろ、ゆきあたりばったりはいかんの意)」等々(細野浩三の芭蕉研究による)。いまのスカウトのハイキングの心とピッタリなのに驚かされる。
 近ごろは、日本のボーイスカウトも、世界ジャンボリーに、青少年の大集団を派遣できるようになったが、これも一つの大きなハイクで、その心は少しも変わらない。青少年のころ、海外に出て、他国の風物人情にふれ、他国の青少年と交歓し、生活をともにすることは、自国をふりかえり、自己を反省氏、一つの人生観を得られるもので、これには、その指導者にも大切な責務がある。
 いま各県に活躍している指導者はほとんど、青少年のころ、この海外派遣に出たものが、一生のやみつきになったものである。
 海外派遣から帰って、この運動を続けぬものを「食い逃げ」といって、みなから軽視されるが、この食い逃げ組も、何年か、また何十年かたってこの運動に帰ってきて、熱心な奉仕をやり出すのもまた不思議である。

 先年フィリピンにおける世界ジャンボリーには、白山丸をチャーターして500余人を、一昨年のギリシャのには、飛行機をチャーターして、135人の青少年を派遣(団長はともに久留島秀三郎)したが、この選考には、全国の候補者を集めてキャンプをやり一昼夜個人ハイクをやらせて採点選択し、それから出発までは、各県にいる者に通信指導し、出発から帰着までは、団長以下幹部は、ほとんど寝ないで指導世話をする。病人を出さぬ根本は「寝ること、食うこと、出す(排泄)こと」で、これは多くても少なくてもいけない。500人からの子供を、海外につれ歩くのは、決してなまやさしいことではない。指導者らは骨をけずり、肉をそぐ心で指導し、みなやせて帰ってくるが、逆に子供たちは心身が成長して帰る。それから爾後(じご)指導である。こんなおおきなハイクの心も指導も、小さいハイクの指導の心も同じである。修養としてのハイキングの妙味は、実に深く広いものを感じられる。

(スカウティング誌 '81.1 より転載)






ボーイスカウト十話(10)

「弥栄」世界に広がる

三島通陽


 「親鸞には一人の弟子もこれなく」とは、親鸞上人が、その弟子たちにいったことばで、これは、上人は釈迦の教えを、みなに伝えているだけで、みんな釈迦の直弟子と思えるとの意である。スカウトの指導者も、これと同じで、みな同一線上に立ってパウエル卿の教えを学ぶ者どもである。これがわが国のスカウト運動の伝統である。
 しかし、またわれわれは常に二つのことを心すべしとされてきた。一つは「師を追い越すような弟子をつくれ」ということを、二つには、常に「自分の後継者を養成せよ」とのことである。
 現に、40余年をふりかえってみると、師を追い越した弟子たちが続々と現れてきた。師のほうは、たいした指導者だと思われない人が、その弟子の何人かに、すばらしい人間ができたことだ。いまスカウト運動の中堅の指導者群は、みな少年スカウトから上がった者が大部分だが、おもしろいことは、彼らはみな、その先生よりもすぐれていることを一般が認めている。しかもその先生より偉くなった教え子が、いつまでも「先生々々」と、おいぼれた先生をしたっている姿がおもしろい。ここにスカウト教育の何かがある。
 つぎに「あとつぎ」のことだが、隊長はつぎの隊長を、各役員もそれぞれ後継者を養成し、死後、老齢、病気、転任にそなえよということである。またスカウト・ファミリィも多くなって、三代はザラ、四代目も出てきた。ここにこの運動の何か魅力があるのではないか。

 さて、ここで自分のことを申してどうかと思われようが、これが、一つのわが原則なのであえて書く。戦後スカウトが再建された時、だれか子供好きの学者の大物を総長にと私は捜していた。パウエル卿はビー・ザ・ボーイマン(おとな子供になれ)といった。そんな人はいないかと捜した。ところが再建の参謀長格の京都の中野忠八から熱意あふれる手紙を受け取った。それは全国代表の総意として、今回は輸入総長はことわる。君が引き受けよ。そしたら私は家財を売り払って上京し、本部総局長を引き受ける。しかし、君は国会議員をやめろ。政党と関係をもつこと、一票もらいあるくことは、総長だけは困るというのだ。私は当時、緑風会所属の参議院議員だった。私はそれまで総長の器にあらずと固辞しつづけていたが、意を決し、つぎの参院立候補をやめた。中野という人は、正しい人で、戦時後ヤミ食料を買わなかったので栄養失調の上に病を得て急死した。その実弟久留島秀三郎は、同志の人々の姿を見かね、兄の弔い合戦だと理事長を引き受けたのが、今日につづき、私らを追い越した奉仕者になった。いまわが国で、このごろの青少年は悪い悪いと言われる。しかし、私は外国へ行くたびに、この道のベテランから、日本少年はすばらしいとほめられどおしである。ここに考うべき問題がある・・・・・・。

 さて、最後に、日本の祝声が、世界的になった話して、この十話を終わることにしよう。
 日本に初めて、スカウトが始まった40余年前、佐野常羽はロンドンの郊外にあるパウエル卿直伝のギルウェル指導者訓練所に学んだ時、13ヶ国の人が入所していた。所長のイルソンは、その全員に各国の「スカウトの祝声をやってみよ」といった。佐野は「イヤサカ(弥栄)」をやって、その意味はエヴァ・グローリーだが、良いことはますますよくする、失敗も禍い転じて福となすの意だというと、イルソンは喜び、発声法は日本のが一番いい、その上哲学がはいっている。日本のが一番だとして「以後このイヤサカをもって本訓練所の祝声とする」といった。それから30年たち、戦後はじめて私がここへ行ったら英国のスカウトが「イヤサカ」と迎えてくれた。ここでは戦時中も平気でこれをやっていたと聞き、私はビックリした。
 その後も続々として、この訓練所に、世界のこの道の指導者がやってきて、訓練を受けては帰る。みなこの「イヤサカ」をもらって各国に帰ってゆく。それで世界のよきリーダーは、これを知らぬ者はなくなった。

(おわり)

(スカウティング誌 '81.2 より転載)






「毎日新聞」昭和40年2月25日より3月7日まで連載。