第 U 部

社会人性を育てるスカウティング

人 格(性格)

健 康 と カ

工作 と 熟練

奉 仕

騎士のおきては今は紳士の道として行なわれる

 

 

T 人 格(性 格)

 

“国家の繁栄は、軍備の強大よりも、その国民の公民としての人格(性格)の結集によることの方が多い。”

“人間にとって、生き甲斐のある生涯を送るためには、学識よりも人格(性格)の方がずつと肝心である。”

(訳者註・原書ではCharacter訳語の人格という言葉は、人の性格、品格、人となり、人柄などの意味を持つ)

それゆえ、人格(性格)は、一国にとっても一個人にとっても、一番の価値を持つものである。しかし、もし人格(性格)が人の生涯を形づくるものであるとすれば、その人が社会に踏み出す前に、まだ少年で物事を受け入れやすいうちに、人格(性格)は養われるべきである。少年のなかに人格(性格)をねじこむことはできない。人格(性格)の胚芽ははじめから子供のなかに存在しているのであるから、それを引き出し、伸ばしてやる必要がある。では、それをいかにしてするか?

ごく一般的にいうと、人格(性格)は環境もしくは周囲の情況から成長するものである。例えば、ここに、双生児でもよい、二人の子供を取り上げてみよう。この二人に、学校では同じ課目を教える。しかし学校外の環境は遊び仲間も家庭も、全く違ったものを与える。一人はいつくしみ深く子供を励ましてやるような母親のもとに、身ぎれいな素直な遊び友達と交わり、世の中のきまりその他に従って行くので彼の面目も信頼されている。一方、もう一人の子供は、だらしのない家庭で、口ぎたない、手くせの悪い、不平不満の仲間の中へ放任してみよう。この子供はその双生児の兄と同じだけの人格(性格)を養うことができるだろうか?

幾千幾万の少年たちが、人格(性格)の欠けた人間になるに任せて日毎にすさんで行き、無益のやくざものとなり、彼ら自身の不幸であるばかりか、その国の苦悩と危険を来らせている。

彼らの生涯の最も感受しやすい時期に、適当な環境が与えられさえすれば彼らは救われるはずである。またほかに、それほど下層に属しているわけではないが(やくざのものは社会のあらゆる階層にあるものだから)、適当な年頃に人格(性格)を養い育てるように向けられさえすれば、もっと良い人間となり、国のためにも有用な、自分でも満足するような人間になれる少年たちが幾千幾万とあるのである。

そこで、この点にボーイスカウト訓練の最も重要な――教育という目的があるわけだ――しかし、教育といっても、諸君よろしいか、指図することではないのですよ、教育、つまり少年たちが自分から望んで、人格(性格)を養成するにふさわしい物事を、自分たちで学ぼうとするように引っぱって行ってやることである。

 

 

なぜ一隊32名を越えてはならぬかという一つの理由

 

一隊の人数はどちらかといえば32名を越えてはいけない。私がこの人数をすすめるわけは、私自身で少年を訓練するに当って、私の手に負えるのは―― 一人一人の性格を理解し、引つぱり出してやれるのは――せいぜい16名ぐらいだということがわかった。それで他の人なら私の二倍は能力があると思うので、合計32名までというわけである。

60名あるいは100名もの立派な隊をもっているという人がよくある。またその指導者たちは少数のグループと同じによく訓練されているという。私は感嘆の言葉を発する(この“感嘆”admirationという言葉を定義通りに解釈すると“驚嘆”という意味になる)。そして彼らのいうことを私は信用はしない。

“何故一人一人の訓練を気にかけるんですか?”と彼らは聞く。それは教育するための唯一の方法だからである。少年が何人いようとも、一時に千人であっても、大きな声と興味をひく考え方さえあれば、指図し伝受することはできる。しかし、それ訓育ではない――教育ではない。

教育とは、人格(性格)の養成と人間の育成が計算に入ったもののことである。

自身を完成しようとするための刺戟剤は、それが適当に徐々に注入されると、本人の気質や気力に最も適した方向に活発な努力を払わせるものである。

一団の少年たちに向って、スカウトのおきてを説教して聞かせたり命令したりすることは少しも役に立ちはしない。彼らはおきてを自分なりに解釈し実行したいという野心に燃えているのである。

ここで隊長の人格(性格)と能力が物をいうことになる。

それで、この人格(性格)をつくり上げるに必要な幾つかの内容を、道徳的、精神的の両方から考察し、次いで少年たちがスカウト活動を通してこれらを自分から養って行くようにさせるには、隊長はどうしたらよいのか、考えてみることにしよう。

 

 

騎士道とフェア・プレイ

 

中世騎士のおきては、アーサー王が自分の“円卓の騎士”の紀律を定めた西暦紀元前500年の頃から、紳士の行動ふるまいの基礎となって伝わっている。

円卓の騎士の物語にはすべての少年たちが興味を湧かし、それは少年たちの道徳感に対して訴えるものを持っている。騎士道のおきてには、名誉、紀律、礼儀、勇気、義務と奉仕に対する無私の心、宗教の導きが含まれる。

ヘンリー七世(14851509)の時代に再公布されたものによると、騎士道のおきては次の通りである。――

1.夜間休息を目的とする時以外は、決して甲冑を脱がないこと

2.“名声をとどろかし”得るような冒険を進んで探し求めること

3.貧しいもの弱いものを守ること

4.正義の争いにおいて助けを求めるものがあれば助けること

5.互の気持を傷つけ合わないこと

6.祖国の防衛と安泰のために戦うこと

7.利益を求めるより名誉のためにいそしむこと

8.いかなる理由があろうとも約束を破らないこと

9.祖国の名誉のために自己を犠牲にすること.

10.“恥をもて逃ぐるより、まず誠実をもて死なんことを”

騎士の理想とフェア・プレイの理念は、少年たちの心に最もよく注入され得る最上のもので、彼らが真に立派な国民になるとするなら、その人格(性格)の一部分となるべき正義について強い観念を持つように導くものである。

他人の立場から物事をみようとするこの習慣は、“旗取り”であろうと“伝令競走”であろうととにかくフェア・プレイが大切な戸外ゲームを通じて養成することができる。ゲームの間は最も厳格にル―ルを守るべきで、このことはゲームに参加しているものにとっては、自分勝手を抑え、気持よく行動することであり、ゲームが終った時、勝った者は敗けた方に同情し、また負けた方は誰よりも先に勝った方を喜び祝ってやるのが礼儀正しいあり方である。

これが身について習性となってしまうまで繰返し実行すべきである。

この公正ということの訓練を更に進めるよい方法は、少年たちが興味を持つ題目について討論会(訳者註・この討論はdebateであるから一つの題目について是か非かに対立して論ずることである。普通にいわれているディスカッションと混同しないこと)を開くことであるが肯定と否定と両方の論議に力を尽させることができる。この討論会を催すことは、あらゆる重要な問題には二つの面があること、論じられている問題について他の一方の言い分を聞かないうちに一方の論者の雄弁に引ずられてはならないこと、また、両方の言い分を自分でよく判断してから自分はどちらにつくかを決めるべきこと、などを少年たちにわきまえさせて行くことができる。

これを確実にする実際的な段階の一つとして、表決の場合、はっきりしない子やあまり熱心でない子は多数の方についてしまうから、挙手によって決めてはいけない。自分で決めた“肯定”または“否定”を一人一人紙に書いて出させるべきである。こうすれば問題の両面を充分評価してから自分できめるということが確実になる。

同様に、模擬裁判とか仲裁裁判とかも、もし真剣に法廷のやり方に従ってやれば、少年たちに正義とフェア・プレイの精神を教えるのに非常に役立つし、また成人してからの陪審員又は証人としての公民のつとめとはいかなるものかを、小さいながらも経験させることができる。隊での名誉会議(訳者註・“名誉会議に関する訳者註 参照)も同じくこの方向に導く一つの手段で、ここでは会議の一員として少年たちに実際の責任があるから、自分たちの見解の重大さを一層ひしひしと感じさせ、問題の両面からの論議を聞いてから、取るべき正しい方向について慎重に考えさせることになる。

こうして、フェア・プレイと他人に対する無私と義務の精神を教えようと、自分で工夫をこらすような隊長なら、屋内でも、屋外でも、自分のスカウトたちを訓練するための機会が広範囲に得られるに違いない。我々が扱っているいろいろの問題の中で、ここは極く概略触れたに過ぎないけれど、このことは少年たちを自治的な国民に仕上げて行くための最も重要なことの一つであると私は確信している。(義務と訳したが原語はdutyで、使命ともいえる。権利に対する義務とは異る)

 

 

紀 律 訓 練

 

繁栄への道を行くべき国家は紀律正しくなければならないが、国民全体の紀律は個々の人間の紀律によってのみ得られる。私がいう紀律とは、権威(訳者註・権威authorityは法律、国家、政府、司法権など、ひいては正しく権限を与えられている個人、委員会、理事会などをも指す)やその他の義務(duty)の命ずるところに対する従順ということである。

これは抑圧的な方法では達せられないけれど、まず自己の紀律、それから他人のために自我や自分中心の楽しみを犠牲にすることを教育したり励ましたりすることによってなし得る。これを教えるのは、実際の手本により、子供に責任を負わせることにより、また彼を高度に信頼しているのだということをわからせることによって、大きな効果をあげることができる。

責任は、班員の間に起る事柄について班長に責任を持たせる班制を通じて、大体の訓練ができる。

1596年の昔、へンリー・ナイヴェット卿はエリザベス女王に向って、青少年の訓練と紀律をおろそかにする国は、海陸の兵隊を堕落させるばかりでなく、社会生活においても同じく堕落した国民をつくるというはるかに大きな禍を招くものである、と進言したが卿の言葉通りを引用すると次の通りであった――“まことの紀律を欠くにおいては、君と国の両方のものなる御代も富も、施すべくもなく一朝にして滅ぶべし。”

悪いくせのある子を罰したからといって紀律がよくなるものではなく、その子の注意をひいて次第に前の悪い方を忘れ、やめてしまうような、もっとよいことを、代りにさせるようにすればよい。

隊長は紀律については、小さなことに至るまで厳格にしかも立ちどころに従うように強調すべきである。少年たちが馬鹿さわぎをするのは隊長が許した時に限るとよい――もっともこれは度々あってよいことだが。

 

 

名 誉 の 感 覚

 

スカウトのおきてはスカウト訓練の全体が根をおく基礎である。

その他いろいろの項目を充分に説明し,毎日の生活にいかに応用するかを実際的でわかりよい実例をもって、少年たちに呑みこめるようにしなければならない。

実地の手本にまさる教え方はない。隊長がみずからそのすべての行動において明らかにおきてを実行するならば、少年たちはその模範にたちまち従うであろう。

もし隊長が自分のスカウトたちと同じにスカウトのちかいを誓うならば、彼の示す手本は一層のカを持つことになる。

第一のおきて、即ち、“「スカウトの名誉は信耕されることであろ(スカウトは信頼される)”これにスカウトの将来の行為と紀律の全体がかかっている。スカウトは真正直であってほしい。であるから、スカウトが“スカウトのちかい”を立てるより先に、この点を最初に隊長からよく説明しておくべきである。

スカウトの入隊式はわざわざ儀式のようにするが、そのわけは、小さいながら厳粛荘厳に行なわれる儀式は深い印象を与えるもので、入隊ということを非常に重要に考えれば、できる限り印象深いものであるべきが当然である。次にスカウトが“おきて”について知識を定期的に復習することが非常に大切である。少年たちは忘れっぼいものであるが、スカウトのおきてを実行しますと厳かな約束をした少年が、いかなる場合にも、その“おきて”が何であるかをいえないということは絶対に許されない。

一旦スカウトが自分の名誉とは何であるかを了解し、入隊式によって彼の名誉にかけて隊員となったら、彼を信頼すべき人物だと思っているのだということを隊長は行動をもって示さなければいけない。臨時でも常任でもよいから何かの役目をつけて、彼がそれを忠実に実行して行くものと期待するがよい。役目をどのようにやっているかと、せんさくしてはならない。自分の思い過りにやらせて、場合によっては苦境に陥らせてみるがよい。それにしてもいかなる場合でも構わずにおいて、その子が自分の最善を尽しているのだと信じてやるがよい。信頼こそ我々の道徳訓練の基礎となるべきものである。

責任を負わせるということは、少年の扱いに成功する秘訣で、極めて乱暴者の最もむずかしい子供を扱う場合に特にそうである。

班制の目的はできる限り多くの少年たちに彼らの人格(性格)を育成する意味で、ほんものの責任を与えようということなのである。もし隊長が班長にほんとうの権威を与え、彼に多くの期待をかけて、任務の遂行を任せるならば、彼の人格(性格)発展のために、いかほどの学校教育がなし得るよりも多くの貢献をすることになるのである。

 

 

自 立 心

 

一級スカウトにならなければ、スカウト訓練のほんとうの意味を身につけたことにならない。一級スカウトになるための進級テストは、そこまで準備ができたことを証拠だて,その少年が立派な男らしい社会人になって行くための初歩の原理を習得したのである、との考えに基づいて規定されているのである。

もはや自分は見習(日本では初級)ではなく、責任があり、物事をやって行くだけの力がある一個の人間として信頼されているのだと自覚するにつれ、少年は自主的になって来る。希望と野心に目ざめてくる。

前より有能な人間になったと感ぜざるを得なくなり、従って自信を持つはずであり、その自信は人生の戦いにおいて何かの時に希望と勇気を与え、成功するまでやり遂げさせるように励ますであろう。

救急、防火、あるいは荷車ひき、架橋などは、手早さや思いつきの用い方の訓練に役立つが、それは他の少年たちと協力して働きながら自分の部署に対して責任を持つわけだからである。

 

“自分のカヌ―は自分で漕いで行く”ように――つまり、行く手を見定めて自分の人生行路を築いて行くように――少年が自立的に工夫に富む人になれるように手伝ってやろう。

 

 

水泳も、一つの特技を身につけ、人命を救助する力を得るという点や、呼吸器や四肢の発育の点で、精神的、道徳的、身体的に――教育的な価値を持っている。

私が南阿警察隊の訓練をしていた頃、隊員たちに自分の知能を使いこなして寝食の方途を得ることを教えるために、二人ずつ組にして200マイル、30マイルの長途騎乗に出してやったものである。

しかし、一人、やや鈍いのがいたので、それには頼りにする連れなしに自分で方法を工夫し自分と馬と両方の食糧を工面するように、ただ一人で出かけさせ、誰の助けもなしで自分の行程の報告を作らせることにした。これは自主心と知能の訓練のために最良の方法であったのでこの方式を私はスカウト訓練に当る隊長たちに確信をもって勧めることができる。

少年たちに望ましい性格を仕こむには、あらゆる学校というものに立ちまさってキャンプが最上の場所である。環境は健全、少年たちは意気昂然と熱心になり、人生の興味深いものに取りまかれ、また隊長はキャンプにいる間は朝から晩まで絶え間なく少年たちを手がけていられる。キャンプでは隊長は、少年一人一人を観察して、その個性を知る最もよい機会が与えられ、従って少年たちを伸ばしてやるために必要な方法を講じることができるし、一方、少年たちは、理解ある隊長の愉快な思いやりある指導によって、紀律、創意工夫、器用さ、自主心、工作、森林知識、ボート操作、ティーム精神、自然勉強、その他多くのことを吸収することができる。キャンプのその生活の間に起る人格(性格)形成に役立ついろいろのものを、彼らは自分たち自身でつかんで行く。キャンプ生活の一週間は、集会室で理論を教えられる(これも価値はあろうけれど)六ヶ月に匹敵する。

であるから、キャンプのことをあまり経験していない隊長たちは、いろいろの方面からキャンプというものを研究し学ぶべきだということを強調しておく。

 

 

人生を楽しむこと

 

大自然の教訓がスカウト活動の中で大切な鍵だと考えられるのはなぜか?

この質問にスカウト活動と一般の少年団体の活動の違いが見出されるわけである。

この質問は次の一句によって簡単に答えられる――“我々は少年たちに、いかに生活の道を得るかというばかりでなく、いかに生くベきかということも教えるつもりだ”つまり、一きわ高い意味で、いかに人生を楽しむかを教えようというのである。

大自然の教訓(Nature Lore)――私は今までにこのことを度々すぎるほどいっているかもしれないけれど――これは少年たちの心と思想をひらくための最上の方法で、同時に、隊長がその要点を見失わないように導きさえすれば、大自然の美しさを感知するカを与え、ひいては芸術の美を、というようになって人生のより高い楽しみへと少年たちを導くものである。

このことが、その驚くべきわざなる大自然を通じてその創造主である神を知ることに加えられ、更にこの神の意志を他人への奉仕によって積極的に実行することが伴うならば、それは信仰の確固たる基礎をつくり上げることになる。

幾年か前のこと、私は息を引取ったばかりのある友人の家の居間に座っていたが、テーブルの上の彼のパイプと煙草入れに並んで一冊の書物――リチャード・ジェファリーズの“畑と囲い並木”がおいてあって、その本の耳を折ってあるページを見ると次のような文章があった――“精神的善の概念は全体として満足のものといえない。現在の我々にわかっている善の最高の形は純粋の無私,即ち、現在または将来にも何らの報いを得ようというのでもなく、いかなる仮想の計画を成就しようとのためでもなしに善事を行なうことである。これが我々にわかっている限りの最善であるが、それでも何と不充分なことか!自己犠牲の苦心を払って生み出きれるものよりも、心の奥底からの願望がもっと充分に満足されるような方法が必要である。それは何か美と理想の認識と一致するものでなければならない。個人の徳性だけでは充分でない。理想の善とはこれとはっきり名ざすことはできないけれど、それはある意味で、大自然の持つ理想的な美と密接な関係にある何ものかであるような気がする。”

いいかえれば、幸福とは内面の良心と、外面に表われる感覚とが結合して働くものだといってよいかもしれない。良心と感覚とが共に同じように満足されてこそ得られるものである。もし上記引用した定義が正しいとすれば、逆のいい方も少なくとも同じ位に確かであろう――つまり、良心がやましくないのでなければ、美を感知するといえども幸福になり得ないということである。それゆえ我々が少年たちに人生の幸福を得させようというのであれば、他人に対する善行を実行させ、それに加えて大自然の美しさを感得させなければならない。

今、最後に述べたことへの近道は、大自然の教えの中にある――

“…書物はせせらぐ小川の中に、

教訓は石の中に、善はすべての中にあり。

大集団の中では少年たちの目は開かれないが、隊長には開眼手術というやり甲斐ある喜びが与えられている。

少年の心の中にウッドクラフトの胚芽が一たん侵入すると、観察、記憶、推理の力は自然に成長して、やがて彼の人格(性格)の一部分として形成される。これは、その後他のどんな道に入ろうと、その少年の人格(性格)の部分となって残るのである。

若い心に大自然の不思議が解明されるにつれ、その美しさにも目がつき、次々と認識されて行く。一たん心の中に美の感得力が与えられれば、観察の力と同じようにこれも自然に成長をとげて、暗黒きわまる環境において喜びをもたらす役をしてくれる。

少年が戸外で心地よい顔つきをしているとすれば、それは一つの取柄である。多くの通行人たちも明るくされる。より大きな幸福への一歩として少年をこういう顔つきにさせることは、やり甲斐のある仕事である。

 

 

また脱線させてもらえるなら、ある暗い冷い霧の日の、バーミンガムの大きな陰気な停車場でのことだった。私たちはうすよごれた労働者や旅の埃にまみれた兵隊たちの人ごみにもまれていた。私はその人ごみを押し分けながらも、歩き出しては見まわし、進んではまた見まわし、更に歩を進める前についに目を見はらせるものにぶつかった。私の連れは気がつかなかったろう。しかし私はその暗い人ごみの谷間で新しい喜びを与えてくれる一条の日光を捉えたのであった。それは黄色と赤茶色の菊の花束を抱え、褐色の制服を身につけた見事な金髪の一看護婦の姿であった。大して驚くことはないじゃないかといわれるかもしれない。たしかにそうだ。しかし、見る目を持つ人々にとっては、暗鬱きわまりないものの中にさえ、こういう輝きは存在しているのだということである。

少年たちには美や詩の鑑賞などできはしない、というのが極く一般の考え方である。しかし、こういうことがあったのを覚えている――数人の子供たちに嵐の風景を描いた絵を見せた。この絵についてはラスキン(訳者註・ジョン・ラスキン18191900年イギりスの有名な作家、美術評論家,社会改革者)が,この嵐に吹き荒らされた光景の中に平和のしるしが一つだけあるといっているのであるが。ところが何も知らぬ一人の子供が、風に吹きまくられる雲の切れ目から一点青い静かな空が見えるのを、やすやすと指さしたのである。

詩もまた、どういう点でという説明はしにくいが、やはり子供に訴えるもので,その美しさにひきつけられ始めると、少年の心は日常の散文ではない何か他の形で自分の心を表わそうとしたくなるらしい。

最もすぐれた詩には散文の中に見出されるものも勿論あるけれど、一般に韻律のあるものが大部分である。しかし、大望を抱く若い詩人にとっては韻は大難関となるから、もし諸君が詩作を奨励しようものなら、拙劣きわまる作品で攻め立てられることになるだろう。できることなら少年たちを愚作から引き離すがよい。流行し出したら蔓延してしまう。

 

 

識見の発展―敬虔

 

識見の発展は神への尊敬――“敬虔”という言葉が最も適当であろう――それは自然にはじまる。

神に対する敬虔,他人に対する敬虔,神の僕(しもべ)としての自分自身に対する敬虔、これが宗教心のすべてのあり方の根底である。神に対する敬虔の表わし方は、教派や宗派によって違う。子供がどの教派または宗派に属するかは、概して両親の希望に従うことになっている。(訳者註・外国の中には一般家庭で宗教意識ないしは宗派観念のはっきりしているところが多い。)決めるのは親たちである。我々の仕事、親たちの希望を尊重し、それがいかなる宗教であろうと親たちがその子に敬虔の心を教えこもうとする努力を補助することである。

我々スカウト運動での宗教教育には、あまり多くの種類の宗派があるために、多くの困難があるに違いないから、神に対する勤めの細かい点は、地元の当局者に大部分任せなければならない。しかし、人間についてすべきことをなにかと示すのは、他人への奉仕のことは大ていの宗教にいわれていることだから、少しも問題ない。

次に掲げるのは、スカウト運動が宗教に関してとるべき態度で、我々の会議において各宗派の首脳者たちの賛成を得たものである。――

 

(a) “すべてのスカウトは何れかの宗教に帰依し、それぞれの礼拝に出席することが望ましい。

(b) “ある一隊がある一つの宗教宗派の信者のみによって結成されている場合、隊長は牧師あるいはその他その宗教の教職者と相談の上、その宗派の儀式、しきたり、その他について自分が最もよいと考えるように取りきめてもらいたい。

(c)“各種の宗教のスカウトたちによって構成されている隊では、各自の宗派の礼拝に出席することを奨励すべきであり、キャンプにおいては日毎の祈祷や週毎の礼拝行事は極めて簡単なものにし、それへの出席は随意とすべきである。”

 

隊長が上記の表示に従いさえすれば、処置を誤るようなことはないはずである。

敬虔のことを教えこむ方法は一つならず数多くあると私は確信する。どうしたらよいかは、それが“手に負えぬ子”であろうと、“甘ったれのお母さん子”であろうと、その子供の個性や境遇に応じなければならない。ある一人に適した訓練が別の一人には大した効果を持たないこともある。隊長にせよ牧師にせよ、指導者の方で適当な方法を選ぶことである。

宗教とは“教えられる”ものでなく、ただ“捉えられる”ものである。日曜日用(訳者註・教会行やお寺まいり用)によそゆきを着るような、外側を包む飾りではない。少年の人格(性格)の真実の一部であり、魂の発展であって、剥ぎとれるような虚飾ではない。人間性の問題、内なる信念の問題であって、教授する問題ではないのである。

数千の青少年を手がけて来た私自身のかなり広い経験からいうと、私は彼らの行動の相当大部分は決して宗教的信念によって導かれてはいない、という結論に達している。

これは多分に、少年の宗教教育に当って教育でなく教授が行なわれたからであろう。その結果は、なるはどバイブルクラスや日曜学校の優秀生徒はその概念をよく掴んではいる。しかし、定義に熟達したため、彼らは教えの真の精神を見逃がし、視野の狭い熱狂信者となる一方、他の大多数の者は少しも熱心にならず、バイブルクラスや日曜学校をやめるとすぐ無関心不信仰になってしまって、人生の重大な時期――16歳から24歳ぐらいの時に際して彼らを支える手がない、ということになるのである。

誰でも、宗教上のよい指導者になれるわけではないし、大熱心者が大失敗者になることもよくある。――しかも自分で気づかないで。

幸い、我々の隊長たちの中にはこの点で立派な資格をそなえた人たちが多くあるが、また中にはこの点について自信のない人もあるに違いない。こういう人たちは、自分の隊のためによろしく聖職者かこの道の経験者の助けを得るべきである。

しかし、実行の面では、ちょうど宗教専門家がキャンプやクラブで隊の少年たちに、学校で理論的に学んだことの実際上の応用を教えて、隊長を応援してくれるように、隊長がその宗教家を助けることは、あらゆる場合に大いにあるはずである。

宗派的な隊では大てい隊付の聖職者があるから、隊長は宗教的訓育のあらゆる問題についてはその人と相談すべきである。宗教的訓育を目的として、“スカウツ・オウン”(Scout’s Own)という礼拝式又はクラスを開いてもよい。これは神を礼拝し、スカウトのおきてとちかいを一層深く認識するための、スカウトの集いのことであるが、正規の宗教儀式を代行するものでなく、あくまでも補助として行なうのである。

しかし、大多数の隊は、各自の家庭によって宗教の異なる少年たちが集まった、各宗教混合の隊である。この場合は、少年たちを各自の宗教の牧師なり僧侶なりの所にやって、それぞれの宗派の宗教訓育を受けさせなければならない。

貧困その他不遇の人たちの多い地域の隊にはほとんど何も宗教を持たない子供ばかりで、その親たちもこの点で助けにはならないことがある。従ってこういう場合には、小さい時から宗教的によく育てられて来た子供たちとは違った扱い方や訓育方法が必要である。

この点でもまたスカウティングは教職者に対して大いに助けとなるもので、既に非常によい成果を示して来ている。

スカウティングは次のような方法によってそういう助けになり得る――

 

 

 (a) 隊長個人が示す手本

 (b) 自然研究

 (c) 善   行

 (d) 年長スカウト組織

 

(a) 隊長の手本――少年たちの目には大人が口にすることよりもすることの方が疑いもなくずつと重大に映るものである。

それ故、隊長は正しい動機によって正しいことを行ない、そうすることを見せびらかすのではないけれど少年たちに示すようにする、という重大な責任を荷なっている。ここで、兄としての態度が教師のような態度よりずつと大きな力をもって物をいうことになるのである。

(b) 自然研究――自然観察の中に多くの説教を聞くことができる。例えば鳥の生態であるが、同じ種類の鳥はたとえ1万マイル距った場所のでも羽毛の並び方は同じで、その移住、巣ごもり、卵の色、ひな鳥の育ら方、母鳥のはぐくみ方、食餌、飛翔力など――これらすべてが人間の力によらず、造物主(神)の定めたところに従って行なわれている――ということは少年たちにとって最良の説教ではないか。

季節に従って咲く花々、あらゆる種類の植物、その発芽や樹皮、いろいろの動物とその習慣や種類、さては宇宙にそれぞれの定められた場所と整然たる運行に従う日月星辰――これらは無限無窮についての、また造物主の広大な計画とその中にあって人間がいとも小さいものであることについての、最初の概念をすべての者に与えてくれる。これらはすべて少年たちを魅了する力を持ち、彼らの探求心と観察カを夢中にならせるほどに刺戟し、もし誰かが糸口をつけてやりさえすれば、この不思議の世界での神のわざを少年たちがじかに知ることができるようにしてやれる。

私が不思議でならないのは、どうして教師たちがこの容易で確かな教育の方法を無視して、活溌で元気いっぱいの子供に高尚なことについて考えさせる第一歩として、聖書の詰めこみをしようと苦労するのだろうかということである。

(c) 善行――隊長の方からほんの少しばかり励ましを与えてやりさえすれば、毎日の善行は少年たちの間ですぐ流行のようになるもので、これは理屈だけでないほんとうのクリスチャン(訳者註・ここではキリスト教の場合をいっているが、何れの宗教でも実の宗教信仰者という意味にとればよい)に育てるための大へんよい手段である。子洪というものは、実行の仕方がわかりさえすれば、善いことをしたいのは生まれつきの本能であるからこの日々の善行ということはその本能を充たし、発展させ、そうしている間に他人に対する慈善の心を持つようになる。

このように善に対する自分の意志を表現することは、神の教えを受身で会得するよりも、ずっと効果的で、少年にとって無理がなく、またスカウトのやり方としてずっと適切である.

(d) 年長スカウト組織――読み、書き、そろばんの基礎課程を受けはじめたかと思うと、やがて一般の少年は善良な働き人として、人生を踏み出す準備ができたものとして世の中に送り出される。学校を卒業してからも、自分で行きたかったり、又は一日の勤務のあとで通学することを親が希望したりすれば、立派な技術や補習学校があって、そこへ行くことができる。優秀な少年たちはこういう学校に入って磨きをかける。

しかし、その中で普通の少年たちや悪い子供たちはどうなっているのだろうか?彼らは足を踏み外ずすままに任されている―一今までの学業を更に補修し、完了することが最も必要な時期に、これからの一生がどうなるか身体的にも精神的にもまた道義心においても転換期である大切な時期に、である。

スカウト運動が少年たちのために大いに貢献し得るのはこの所であって、このことのためにこそ年長スカウトを組織して、少年たちを引きとめておき、連絡を保ち、善に進むか悪に外れるかの岐路に立つ人生のこの時期に立つ彼らを、スカウト運動の最高の理想をもって鼓舞しようというわけである。

 

 

自   尊

 

少年たちが涵養すべき尊敬敬虔ということを語るにつけ、自分自身に対する敬虔つまり最高の形の自尊という重大なことを見落してはならない。

これもまた手ほどきの段階としては自然研究によって教えられる。植物、鳥類、貝類の解剖など、造物主の不思議なわざの一つとして見ることができる。次いで同じ見方で自分の身体を調べさせるとよい。骨格、皮膚、筋肉、神経、腱、血液の循環、呼吸、脳髄と運動の支配、これらのすべてが、細かい部分に至るまで幾億万の人間一様に同じでありながら、二人として顔も指紋も同じものはないのである。この不思議な人間の身体が神の手によって作られ、神の宿り場所として大切にし、成長させて行くために自分に与えられたのだということを少年に考えさせるとよい。そしてこの身体は正義の観念、即ち高い道義心によって導かれれば、よい働きと勇敢な行為をすることのできる身体なのだということを。

このようにしてみずからを尊ぶ心が生れてくるのである。

これはいうまでもなく多くの言葉を費して説教し、その結果が現われるのをただ待っているというのではいけない。その子供を相手にするあらゆる場合に意図し、期待をもってかからなければならない。特に少年に責任を負わせてやること、自分の能力の及ぶかぎりの最善をつくし義務(duty)を行ないぬく尊敬すべき人間として信頼してやること、また図に乗せないようにしながらも尊重と思いやりをもって扱ってやること、などによって自尊心を助長することができる。

 

 

忠   誠

 

神と人に対する敬虔に加えて、祖国に対する忠誠は特に重要である。

祖国に対する忠誠心は、国民の別々の考え方に均衡を与え、妥当な見解を持たせるために、最高の価値を持つものである。国旗に対する敬礼、国歌の奏楽歌唱の時の起立、その他いろいろな外面的表現も、忠誠心を助長するに役立つけれど、このような表現のもととなるべき真の精神を養うことがまず肝心である。

少年としては、みずからに忠誠――つまり自分の良心に対して忠誠――であることが自己認識への大きな一歩となる。他人に対する忠誠は、言葉よりもみずから表現し行動することによって明らかにされる。他人への奉仕と自己犠牲には、一朝外敵の侵略に対して祖国を守る必要が起った時には祖国のために赴くという覚悟が含められているのは当然である。これは国民一人一人の義務(duty)なのである。といって乱暴な喧嘩好きの精神を養おうというのでもなければ、兵役や戦争のために訓練しておこうという意味でもない。そういうことは、少年が自分で物事の判断を下せる年輩になるまでは心を煩わす必要はない。


U 健 康 と 力

身体と四肢の運動を絶えずすることに興味を持たせよ

 

 

生涯を築き、人生を楽しむ上に、よい健康と身体の強きは計り知れぬ価値を持っている。わかりきったことである。教育の方からいうと、“本を勉強する”ことよりも価値があり、“人格”(性格)とほとんど同じに大切だとみてよい。

我々スカウト運動では、有用な社会人となるのに欠くことのできない健康と衛生についての訓練を、何ほどか少年たちに与える点で大いに尽すことができる。

我々の任務は少年たちに運動に関心を持たせ、同時に、体を痛めずにはげしい運動ができるようになるまでには、まず健康な身体をつくり上げなければならないのだということを教えてやることである。健康な身体は、適当な淡白な食餌、清潔に関する衛生上の注意、鼻で呼吸すること、休息、衣服、規則正しい習慣、自制などといったことで得られる。しかし自分たちは病気にかかりやすいのかと思うなど、少年たちを内向的にしてはいけない、その代り、健康を鍛えることを目的としてスポーツのできる身体を持たせなければいけない。

毎週の隊集合でわずか30分ばかりというのでは、正式の体育をすることは到底不可能であるけれど、それでも我々は、自分の健康には自分で責任を持つこと――即ち健康をいかに得るか、いかに保つかを少年に教えることはできるし、自分勝手の時間に実行しさえすれば身体を強くするのに役立つような運動の仕方を教えてやることもできる。また,いろいろな戸外の運動やゲームをただ楽しみのためばかりでなく、自分の一生を通じて健全に、強く、丈夫になるに役に立つのだということで、それに関心を持たせることもできる。

肉体の健康は神経や精神の健康にも関係がある。ここで我々のいう訓練は肉体の訓練と相結ぶわけである。

 

 

強 健 で あ れ!

 

理屈にかなった注意と理解をもってすれば健康で働ける人間になれるのに、そうしないために不健康でいる人の数はかなり多いという統計が出ている。学童の健康に関する報告によると、5人に1人の割合で成人してからの活動を妨げられるような欠陥を持っているということであるが――それらの欠陥とは、いいですか諸君、予防することができたはずのものである。

これらの統計報告は多分に挑戦的であり、同時に不足しているものと救済の手をうつべきこととを示唆している。即ち、我々が手おくれにならぬうち手をうてば、年々幾千万の少年たちを、みじめな半人なみの生活を引きずって行く代りに強健な有用な人間にしてやることができるというのである。

これは個々の人間としてばかりではない、国家的にも重大な問題である。

ごく一般的な立場から若い世代のための体育の向上について論じられているが、この方面に向って我々の仕事の道は大いに開かれている。

しかし私は、こういう世論の声によって、誤った方向に引ずられてはいけないということを、隊長諸君に警告を発しておきたい。

26頁に掲げた“社会人性育成のためのスカウト訓練計画分析表”によって、人格(性格)と肉体的な健康の二つがいかにまたなぜに我々スカウティングの主要な目的であるか、またこの二つのために我々がいかなる手段を尽すかは、既にご承知の通りである。

しかし、肉体の健康は必ずしも肉体のはげしい操練によって得られるものでないことを念頭において頂きたい。

軍隊の教練は周到に考案されたもので、軍隊の目的のためには立派なものである。成人男子の発達した筋肉組織に適し、このはげしい訓練のもとに兵隊たちは健康を非常に増進させる。

しかし、自然には得られないようなものを補充しようとの考えから工夫されているので、無理なことがよくある。

神は決して肉体の“飛躍”を案出されなかった。ズールー族(訳者註・南阿の一派の土人)の戦士たちは、戦士としてすばらしいものだが、スェーデン体操などしたこともない。普通の少年でも、フットボールをし、その間にトレイニングの運動をして健康を保っていた少年なら、引きつづき健康を増進するためにはげしい操練を必要としない。

戸外のゲーム、ハイキングとキャンピング、健康的な食餌、これに適当な休息が加われば、自然な、無理のないやり方で少年たちを健康に強くしてやることができるのである。

これに不賛成なものは誰一人あるまい。まことに簡単な理論である。けれど、実行となると幾つかの困難を解決しなければならないことを発見する。

都会の、あるいは終日工場で働いている少年などが、広い野外に出てゲームをすることはむずかしい。野天で働くものや山村の少年は戸外で暮らすことが多いから、当然その機会に恵まれている。それでも彼らはいかにゲームを楽しむか、時としてはちゃんとした走り方も知らない!

ちゃんとした走り方のできる少年がどんなに少いか、それは全く驚くばかりである。

自然な、楽々とした軽い歩き方は、ランニングの練習によってのみ体得できる。この練習をしないと可哀そうに少年は、無作法者ののろまな重いドタドタ歩きか、都会者のセカセカした引ずり歩きかになってしまう(それに、人間の歩きぶりに何とその人柄が表わされることか!)

 

 

編成されたゲーム

 

 スカウティングの目的の一つは、少年の健康と力を増進し、その人格(性格)を養うに役立つような、ティームで行なうゲームや活動をさせることである。これらのゲームは面白く、競争的であるべきで、これによって勇気の本質ルールに従うこと、紀律、自制、鋭敏さ、不屈さ、指導性、自分本位でないティーム精神などを仕込むことができる。

こういうゲームや練習の例をあげると、はしご、ロープ、木、岩などに登ること、肋木や平均台、二股の木の枝に杖をわたして跳び超えるハードル競争、視力を強くする“斑点だらけの顔”遊び(訳者証・この遊び、いかなるものか不明、機会を得て調べるつもり)、投球と捕球、ボクシング、相撲、水泳、ハイキング、縄とび、片足組打ち、リレーレース、闘鶏あそび、フォークダンス、動作入り歌や般歌を歌うこと、その他。こういうゲームやその他多くの活動が手はじめとなって班対抗のいろいろのプログラムが計画できるが、創意力に富む隊長なら、これらを順次応用して、必要な体力増進を計ることができたはずである。

このような活発なスカウトのゲームは、私の考えでは、体育の最もよいあり方だと思うが、そのわけは、これらの大部分は道徳教育にも役立つ上に、費用もかからないし、整備された運動場や器具などが無くてもできるからである。

ゲームや競技は、スカウト全部が参加できるように、及ぶ限りの手配をすることが必要である、というのは、我々は一人や二人の上手な者だけが活躍して、あとの者にはすることがないなどということは望まないからである。みんなが練習し、みんなが大体うまくなるべきである。班ががそのままティームになるのだからゲームは主としてティーム試合になるように手配すべきである。優勝戦まで行くものが相当あるような競技では、決戦は勝者たちにさせる一般の方法をとらず、敗者たちでさせ、どのティームが最も優秀かというよりどのティームが最も悪いかということを見つけるのをゲームのたてまえとする。上手な者たちはどうしても賞をとろうとして最劣等にならないように一生懸命に努めるもので、前述したような競技の方法だと劣等の者に大いに練習をさせることになる。

スカウトにあって我々はどんな子供にでも――都会であろうと山村であろうと――いろいろのゲームをするにはどうしたらよいか、そしてどうしたら生活を楽しみ、同時に心も体も強くできるかを教えてやることができるのである。

 

 

体   操

 

ゲームをする好い機会が得られなかったり、度々することができない場合に、体操は身体の発育のための集約的な方法であり、ゲームと併行してもよいのであるが、次のことに注意しなければならない――

1.体操を全然教練のようにしてはいけない。それより少年各自がよく理解して、自分のためになるのだからというので自分から進んでやりたいと思うようなものにすること。

2.体操を教える者は、解剖学について多少の知識を持ち、多くの教練的動作が少年の未熟な身体に及ばす害について知っていること。“Scouting for Boys”に掲げておいた六種類の体操なら、解剖学その他の専門家でない隊長でも危険の心配なく教えられる。(この体操は――正しい動作と呼吸の仕方を覚えこんだら――自分の家で暇な時にスカウト各自にやらせるべきで、隊集会の常例の一つにすべきではない。)(前述六種類の体操についてはこの書訳了後附録する)。

少年たちが不断に身体と四肢の運動をし、むずかしい動作をもやりこなせるようになるまで勇気と忍耐をもって練習することに、興味を持つようにするためには、我々はあらゆる手をつくさなければならない。

例えば“走高跳”、“三段跳”、“土嚢はこび”といったような簡単な運動について各隊で一定の基準をつくっておき、スカウト各自が自分の能力を高め、前よりも高い基準に達しようと試みることができるようにするのは結構な仕組である。

次に、ティームのユニフォームのようなものがあると、少年たちにとって一つの魅力になるし、運動方面でのエスプリ・ド・コール(団体精神)を向上させることにもなり、ひいては運動の前後に衣服をとりかえ、身体や手足を拭くこと――洗うこと――清潔ということを奨励することになる。

“いかにして健康を保つか”はやがて運動をする少年がみずから強い関心を持つ問題となり、自分自身気をつけること、栄養価、衛生、自制、禁酒、その他いろいろの尊い教訓を受け入れる土台となる。

少年各自に、自分は責任ある人間だ、だから自分の身体と健康に注意する責任があるのだということ、自分の身体を最もよく発達させることが神に対する義務(duty)の一つなのだということを感じさせよう。

 

 

教   練

 

教練を少年の身体を発達させるよい方法であるといって、多くの人々が弁護しているのをお聞きだろう。私は生涯を通じて教練の経験を持っているが、もし人々が11時間の教練は少年の体力と体格をよくすると考えているなら、失望すべき結果を見るであろう。

毎日毎日、月を追って、兵隊に課せられる教練は疑いもなく身体を非常に発達させる。しかし、教官たちは――いずれも熟練の専門家であるが――厳格な紀律のもとに生徒らを絶えまなく自分の監督下においているのだ。それでも時として間違いを仕出かし、心臓や過労その他の病気が起ることは成熟した男たちの間でも稀ではない。

その上、教練はすべて詰めこむ。少年の中に叩きこむことで、決して自分みずから学んで行くところの教育ではないのである。

スカウトに対する教練についていえば、私は今までにしばしば隊長に向ってこれを避けるように――つまり行過ぎはいけない――と注意しなければならなかった。若干の父兄たちからの軍国主義的反対を別として、二流どこの隊長たちだとスカウティングの高遠な目的(即ち、個々の少年から抽き出すという)が理解できず、また理解したとしても教練についての独創性を持たないために、行進の時の見せかけのために少年たちを何かの形に整えようとの手近かな手段として教練をするから、だから教練は好まないといわれる。

同時に、隊長によってはその反対を行きすぎて、隊員たちにはっきりした紀律も身だしなみもなく、いつもだらしのないままにしておくのがよくある。この方がもっと悪い。中庸が必要なのだ――よい身だしなみや態度、また勇気をふるい立たせ、男らしく隊の名誉のために身を持たそうとするようなティーム精神の源泉などについて、どんなことが必要なのか、ちょうどよい加減の指示は必要なのである。そのために時たまの教練は必要なのである。しかしそれにしても、もっと値うちのあるスカウト訓練を犠牲にして没頭するようなことがあってはならない。

少年たちに元気をつけ、彼らを羊のようでなく男らしく行動きせるために我々がスカウティングで必要な教練といえば、隊集会のはじめ数分間の無音でする教練か、“O’ Grady says”、というゲーム(訳者註・最終頁参照)ぐらいである。教練を全然無視しようというのではないが、消火、荷車ひき、救命ボートを乗出す、架橋、その他の作業によって操練する方がずっと望ましい。これらは何れも身だしなみと活動と紀律とを等しく要するが、少年各自がティーム全体の成功のために自分の頭を使って物事をして行くということが肝心である。更にこれらを競争することは、見る人たちにとっても最も興味あるものであろう。これがまた士気とフェア・プレイの精神を育てることを含んでいるのである。

自分のティームが敗けた時、嫉みを抱いたり、審判の不公平や相手の戦術を鳴らしたり決してしないことこそ旨とすべきであり、どんなに落胆しようとも相手に対して心地よい賞讃をこそ示すべきである。これこそ真の自律と無私を意味し、偏見を打破るためになくてはならぬ善意をあたりに振りまくことになる。

私はある非常に精鋭な連隊を知っているが、そこの新兵は極く少ししか教練を受けない。彼らはいかにすべきかを教えられると、あとは自分で常習的にできるようになり次第、古参兵と同じに外出したり自分の楽しみや軍務をしたりしてよろしいといわれる。軍隊で挙止動作を何ヵ月もかかって詰めこまれる代りに、みずから身につけるのは“かかって彼ら自身による”のだというのである。そういうわけで彼らは自分から教練し、互に教練し合って普通の半分の期間で新兵の域を卒業してしまった。

ここでも教育と詰めこみは違うのだ!覇気と責任を兵隊たちに持たせることによって、この成果を見たのである。諸君もこれと全く同じやり方で少年たちの身体を発達させることができると思う。

けれども、結局は、自然の中でのゲーム、新鮮な外気、健康な食餌、適当な休息の方が体操や軍隊的教練をどれだけ多くするよりも、発育のよい健康な少年をつくることができるのである。

 

 

戸   外

 

牡牛を強くするには酸素を――私はかつてあるスカウト隊がその集会所で実に見事な教練をやったのを見たことがある。

それはそう快で立派なものだったが、ああ何たることか、空気はそうでなかった!ごく控え目にいっても“鼻でやつと息ができる”ようだった。通気が全くないのである。少年たちは機関車のように活用していたけれど、実際は血行をよくする代りに毒気を吸いこんで、折角の活動を台なしにしているのだった。

運動をして効果をあげるその半分は新鮮な空気のおかげで、空気は鼻を通してと同様、都合よくも皮膚からも吸いこまれる。

全く――戸外こそ成功の秘訣である。スカウティングはそのためにこそ――できる限り戸外生活の習慣をつけるためにこそ、存在するのである。

ある大きな都会の隊長に、土曜日のハイクをどんな風にやっているか、公園へでも行くのか、郊外へ出かけるのか、と聞いたことがあった。

彼はそのどれもしないと答えた。なぜ?隊員たちが望まないから。少年たちは土曜日の午後になると集会室に来ていたいのだという。

可哀そうな奴ら、隊集会室に来る方が好きだというのも尤もな話だ。彼らは屋内にいることに馴らされている。しかし、こんなことをスカウトにさせまいというのが我々の仕事で――我々の目的は彼らを屋内から連れ出して戸外生活を好きにならせようというのである。

小アレキサンドル・デューマ(註・“三銃士”や“モンテクリスト伯爵”を書いたデューマの息子、“椿姫”で有名なフランスの小説家)がこんなことを書いている――”もし私がフランス国王であったら、12歳以下の子供は誰も都会へ来させないことにしよう。12歳になるまでは野外で――日の光を浴び、野で、森で、犬や馬を友にして、身体を強くし、理解のための知恵を授けてくれ、魂に歌を与え、世界中の教科書を集めたよりももっと教育のために役立つ好奇心というものをかき立ててくれる大自然と、顔つき合せて生活させることにしよう。

“子供たちは夜の沈黙もまた夜の物音も理解するようになるだろうし、最高の宗教――神御自身がその日毎のわざに示される輝かしい光景の中に啓示し給う――を持つであろう。

“こうして12歳になった暁には、強健で、高尚な心と深い理解をもって、その時にこそ彼らに与えてもよい組織的な教育を受けるだけの能力をそなえ、しかもその教育を4年か5年でやすやすと卒業できるに違いない。

“フランスにとっては幸だったろうが、子供たちにとっては不幸にも、私は国王ではなかった。

“私にできることといえば、こういう忠告をし、一つの方法を提案するだけである。その方法とは――子供の生涯の第一歩として、まず体育をせよ、である。

スカウトにあっては特に、もし我々固有の長所を守ろうとするなら、どうしてもこの方向にしっかり向わなければならない。

戸外生活はスカウティングの真の目的であり、成功の鍵である。しかしあまりにも都市生活がしみこんでいるので、我々はこの目的を軽視し、形式に戻りがちである。

我々はクラブではない――日曜学校でもない――我々は森の教場である。我々は、精神のため身体のためであるとを問わず、スカウトと隊長の健康のために、もっと戸外へ出て行かねばならない。

キャンプはスカウティングで少年たちが一番待望することで、隊長にとっては絶好の機会である。

野外生活と大自然の味わいにより、即席の料理法、山野を駈けまわってのゲーム、追跡、道さがし、開拓、少々の苦労、キャンプ・ファイアを囲んで歌を歌うことなどにより、キャンプは間違いなく必ずどの少年の心をも捉える。

我々は空地、スカウトたちが自由に行けるような我々自身の土地、できることならキャンプ用にずっと使える土地がほしい。スカウト運動が発展するにつれて、スカウティングの各中心地ではこのようなキャンプ地を当然の設備として持つようにすべきである。

以上のような大きな目的に貢献するほか、常設のキャンプ地にはもう一つ役に立つことがある。指導者たちの訓練場として、キャンプ工作や自然研究の勉強をし、何ものにもまして野外生活の精神――森林生活における兄弟精神を感得する場所とすることができる。

今まで何年かの間にこういうキャンプ地が手に入り、スカウターのための訓練場として、スカウトのためのキャンプ場として使われている。このような常設キャンプ地はキャンプ生活についてその価値をよく証明して来ているが、都市の周辺にある土地が建物の建築用地として誰かにみな買い取られてしまわないうちに、我々はキャンプ地としてもっともっとほしいのだ。

私は“キャンプ生活”という言葉を用いた。“キャンプ生活”は“テントの中で暮らす”こととは違うのだということを、しっかりと念頭において頂きたい。

少し前のこと、私はある模範的な学校キャンプを見せられたが、そこではキチンと張ったテントが幾列もズラリと整列し、大きな立派な食堂用テントや設備の整った料理人たちの一廓もあった。レンガをしきつめた小路もあれば、木造建の浴場も便所もあった。すべてよく設計され、建築屋に建てさせたのである。このキャンプを開設した人はただある金額を払っただけで、このすべてができあがった。全く簡単でテキパキしたものである。

私の唯一の不満は、これはキャンピングではないということだつた。テントの中で暮らすのとキャンピングとは非常に違ったことなのである。いわば、すっかりお膳立てをしてもらえる群衆の1人としてなら、どんな馬鹿でもテントの中で暮すことはできる。しかし、そこで彼のためになったはずのことは、家へ帰ったらそれきりである。

スカウティングにおいては、少年たちに魅力があり、同時に一つの教育ともなる――つまり、前もってテントをつくったり、食べものの作り方を習ったりまでして、自分たちで設営する――これが真のキャンピングだということを我々はよく知っている。

これから、班ごとに別々の敷地や選定した一隅にテントを張ること、水や薪のこと浴場や野外台所や便所やごみ穴やその他の設備、キャンプ工作の応用、キャンプ用具や家具の製作などが、強い興味と計り知れぬ訓練とを与える。

テント町に大人数の少年を擁する場合は、集団生活を支えて行く手段として教練や特別の指示を行なわざるを得ないが、それに反して数班だけの場合は、キャンプそのものの作業に相当の時間をとられるが、そのほかに自然知識や、田舎を駈けまわったりハイクしたり、森林の中で戸外生活をしている間に心身の健康を増進するなど、間断ない教育の機会が得られる。

キャンプは隊訓練成功の要件である。しかしキャンプは忙しくあるべきで、目的もない遊びの場所であってはならない。

 

 

私の理想とするキャンプは、誰も彼もが機嫌よく忙しく、班はいかなる状況の下でもいつもの通りのありのままで、班長もスカウトもみんな自分のキャンプと自分の道具を心から自慢することができるような、こんなキャンプである。

小規模のキャンプだと隊長が示す手本によって非常に大きな成果があげられる。君は自分の隊員にまじって生活している。そして彼らから注目され、知らず知らずに模倣され、しかも恐らく君自身はそれに気がつかないだろう。

もし君が怠ければ彼らも怠けるし、もし君が清潔好きなら彼らもそうなろう。またもし君がキャンプ用の小道具をあれこれ工夫するのが巧みだと、彼らも競争で小道具発明家になろう、というものである。

しかし、少年たちにさせるべきことに隊長が手を出しすぎてはいけない――“何かやらせたい時は自分でするな”とはよい言葉である。

我々はほんとうに健康で清潔なキャンプを望むばかりでなく、少年たちがそこで森林生活者の生活にできるだけ近づき、冒険を試みることができるようなキャンプを望むのである。

 

 

水泳・漕艇・信号

 

水泳――身体を鍛えるためのいろいろの方法の中で水泳には次のような利点がある――

少年たちは水泳が好きで、熱心に習いたがる。

清潔を好むようになる。

泳法を覚えるうちに勇敢になる。

熟練するに従って自信を得る。

胸部と呼吸器を発達させる。

筋肉を発達させる。

人命救助のカをつけ、実行の櫻会を求めるようになる。

漕艇――もまた筋肉を発達させるのに非常によく、スカウトにとって大きな魅力を持つ。ボートは水泳の能力が認められたものだけに限定すべきで、そうすると多くの少年たちを水泳訓練の方に誘うことになる。

信号――信号の訓練は知能的な訓練である一方、何時間も身体を屈折し、腕を動かし、視力を訓練することによってよい運動にもなる。しかし、これは何の役にも立たず、目的もなければ冒険物語も生まれない屋内での信号練習に堕落しないように、戸外で練習されるべきである。

 

 


個人衛生

 

清   潔

 

清潔は身体の内外ともに健康にとっての第一条件である。

入浴ができない湯合、地の粗い濡れタオルで身体を摩擦することを、少年たちの習慣となるように教えるのは非常に大切なことである。また食事の前や用便のあとで手を洗う習慣も同様である。隅から隅まで清潔でなければならないということは、ハエとりの実行から教えることができる。ハエとりはスカウトたちにできる有益な公共奉仕としてばかりでなく、ハエの足で運ばれ、しかも人間を害するほどの影響を持つ微細な病菌について教えることにもなる。

 

 

食   物

 

食物は成長ざかりの子供については重大な考慮を払うべき問題であるが、それでも親たちの側がこの問題に関して大いに無知で、従ってその子供たちも同様のありさまであり、隊長が食物のことについて多少心得ていることは、隊員たちの精力と健康のために――特にキャンプにおいては――役に立つ。

量についていえば、13歳から15歳ぐらいまでの子供は大人の量の8割程度が必要であるが、気ままにさせておけば15割ぐらいは大喜びで食べこむだろう。

 

節   制

 

 

控え目に食べることは、大人が飲酒を控え目にすべきとほとんど同じほど、少年に必要なことである。量においても種類においても、食慾を抑えることは自制のよい修業になる――種類の如何を問わず食べものを詰めこむとなったら、子供たちの能力は一体どこまであるか見抜ける人はまずあるまい。食慾を抑えてやるのは、運動のために身体を適合させんがためである。

このように節制は、訓練上精神的にも肉体的にも注意すべきことになるわけである。

 

 


制   慾

 

少年を教育するすべてのことの中で、最もむずかしく、また最も重要なことの一つは性衛生である。身体と精神と心、健康と道徳心と人格(性格)、これらすべてが性の問題と関連している。隊長は個々の場合の個の性質に応じてうまく扱わなければならない。この問題は教育の権威者たちによってもまだ充分な方注が講じられていない。しかしこれは少女に対してはまだしも、少年の教育においては見逃がし難い問題である。親たちや世間一般に取り除かなければならない偏見や上品ぶるなどという大きな障壁があるが、それに気をつけて上手に扱う必要がある。もちろん自分の子供たちに適当な教えを与えるようにするのは、ほんとは両親の義務なのであるが、その大部分はなにかと理由をつけてその責任を回避する。こういう怠慢は犯罪に近いというべきである。

アレン・ワォーナー博士は次のように述べている――