※このページの内容は、茨城県創立50周年記念式典で、スライドショーとして発表したものです。
 ナレーターのセリフをほぼ、そのまま掲載しています。

50年の歩み PDF 版

「みなさん、こんにちは!」
「茨城県連盟50年の歩み!ナビゲーターをつとめます、取手第2団杉浦と」
「つくば第1団の佐藤です」「よろしくお願いいたします。
「今年はみなさんもご存じの通り茨城県連盟が誕生して50年がたちました」
「さぁこれからみなさんと一緒に、茨城県連盟の歴史を創立にまつわるお話と、創立後の50年間の二部構成で振り返ってみたいと思います」
「それでは、始めましょう」
イントロデュース
「2001年、21世紀最初の年、ボーイスカウト茨城県連盟は創立50周年を迎えた。
加盟員約4,000人、中規模の県連盟である。
加盟員の減少が取り沙汰される中、減少のない数少ない県連盟の1つである。
その要因の1つに、若者達の活躍がある。ローバースカウトたちだ。
ここ茨城には、彼らが力を発揮できる「場」が用意されている。
今も、ローバーたち、そしてそれに続くスカウトたちがどんどん育っている。
そう。茨城のボーイスカウトは、80年前に24歳の若者の情熱によって誕生したのである。
【戦前編】
三島通陽。そう日本連盟第4代総長である。
この人の存在が、県連の誕生に大きく関わっている。
そして、この人「佐野こう治」、現佐野理事長の父である。
この人無くしては、茨城のボーイスカウトの歴史は語れない。
今から78年前。1923年 大正12年。
当時の佐野は薬剤師であった。同時に文学青年でもあった。
特に好んで読んでいたのが、当時新進気鋭の作家で、貴族院議員でもあった「三島章道」である。彼こそがそう日本連盟第4代総長「三島通陽」なのであった。
佐野は何とかして、三島に会いたいと考えた。 しかし、あまりに身分が違いすぎる。
そこで、佐野は考えた。
ダメでもともとである・・・・・・・手紙を書いた。「是非、講演に茨城に来て欲しい」・・・と。
あまりに厚かましいお願いである。
佐野はためらった。「エイヤ」佐野は手紙を投函した。
数日後、佐野のもとに手紙が届いた。三島章道からだった。
佐野は驚いた。
そして、急いで 読んだ。
「来てくれる!!」 佐野は舞い上がった。
そして準備に追われた。
2月28日当日。
三島は、2人のスカウトを伴って笠間駅に降り立った。
講演が始まった。「乃木式火鉢」と題する話だった。
大勢の人が集まった。その中に当時小学生だった第2代理事長岩瀬がいた。
佐野は、三島の話に魅入るとともに三島が情熱を注いでいるボーイスカウトに惚れた。
公演後、佐野は三島に尋ねた。ボーイスカウトの指導者になるにはどうしたらいいのか。
三島は答えた。
「それには小学校の教職員になるのがいちばんの近道だ」・・・と。
佐野は決断した。そして薬剤師を捨てた。
その年の4月、佐野は栃木県の尋常高等小学校の教員になっていた。
三島の講演から1年1ヶ月後のことであった。
大正14年8月。富士 山中の野営場でわが国最初の中央実修所が開設された。
そこで10日間の訓練を受けた。
ますます佐野はボーイスカウトに取り憑かれていった。
そのころ、県内各地でボーイスカウト隊が結成されていた。
佐野の下にそれらの団長が集まった。茨城県連盟を作ろう。
昭和6年、とうとう茨城県連盟が結成された。佐野、32歳であった。
しかし、第2次世界大戦のために消滅した。
【戦後・復興 編】
戦後、佐野はボーイスカウトの復興、県連盟の再興のために立ち上がった。
しかし、占領下のことである。なかなか思うようにはいかなかった。
ところが思いがけないことが起こった、占領軍の方からアプローチがあったのだ。
昭和22年2月 占領軍のラゴニー氏が佐野を訪ねた。
「ボーイスカウト運動を再建しないか」と。
佐野は、耳を疑った。 
そして、佐野は、戦前からの指導者、塙、打越らとともにラゴニー氏を囲み要談を重ねた。
8月夏。関東一円の再建を志す者達が、那須の三島家に集まった。
その中に佐野の姿があった。
次に佐野が行ったのは、指導者の養成である。
県社会教育課の支援で、指導者講習会を笠間市の佐白山で行った。
こうして準備は整った。
昭和24年、県内には5つのボーイスカウト隊が一斉に発隊した。
そこには現・橋本副連盟長も隊付として参加していた。
それを契機に、県内でも各地で隊が設立された。
昭和26年3月。水戸市役所において、県連盟理事会が開催された。
そこで、佐野は理事長に就任が決定する。
また、連盟長には、水戸徳川家の御子孫である徳川宗敬氏を、学習院時代の同窓である三島総長に仲介していただき、就任をお願いした。
そして1951年 昭和26年5月20日、
茨城会館においてボーイスカウト日本連盟第4代三島通陽総長ご夫妻をお迎えし、
加盟隊16隊、スカウト400名で茨城県連盟が再び結成された。
水戸駅から会館まで400余名の大パレードを見た佐野の目には光るものがあった。
思えば戦前の結成から20年。
三島総長の話を聞いてから28年の年月が経っていた。
佐野は、52歳になっていた。
これが茨城県連盟結成に至る経緯である。
【茨城県連盟創立からの50年間】
「続いて、茨城県連盟創立から今までの50年間を振り返ってみましょう」
今から50年前 1951年 昭和26年。
初代佐野理事長が就任
8月には蔵王で行われた全国大会に8隊300名を派遣。
翌年1952年 昭和27年。
茨城県キャンポリーの第一回目が高萩野営大会として行われました。
そして1958年までに第4回までのキャンポリーが行われました。
1956年 昭和31年。
第1回日本ジャンボリーが軽井沢で開催され、13隊240名を茨城から派遣しました。
1959年 昭和34年。
第2回日本ジャンボリーが滋賀県あいば野で行われ、11隊214名が参加しました。
全国から1万7千名が参加したこの大会は、台風の直撃を受け全員避難した大変な大会でした。
同年、第10回世界ジャンボリーがフィリピンで開催されました。こり大会は、当県連として初めて世界ジャンボリーにスカウトを派遣した大会となりました。
この大会に、なんと現在の山田隆士副理事長と檜山第2地区委員長が参加されました。
1960年 昭和35年。
茨城県連盟10周年記念大会が、水戸偕楽園で開催され水戸駅から偕楽園まで200名のスカウトがパレードを行いました。
また第5回県キャンポリー大洗海岸野営大会が開催されました。
1962年 昭和32年。
第3回日本ジャンボリーが静岡県御殿場で行われました。
1963年 昭和38年。
第1回年少スカウト交歓大洗大会が開催され、この大会が県連最初のカブラリーとなりました。
同年、第11回世界ジャンボリーがギリシャで行われました。
ごらんの写真は、ギリシャの皇太子に、お箸の持ち方を御教えしているところで、教えているのは、当県連第4代理事長吉田理事長です。
1965年 昭和40年。
茨城県連盟15周年記念大会が開催されました。
1968年 昭和43年。
第7回県キャンポリーが、取手市キャノンの森で開催されました。
1970年 昭和45年。
第5回日本ジャンボリーが静岡県・朝霧高原で開催されました。
そして翌年 第13回世界ジャンボリーが招致され、同地で開催されました。
茨城県連盟から合同隊3隊 120名が参加、またしても、台風がジャンボリーを襲い避難命令が出されました。
1977年 昭和52年。
この年までに第8回、9回県キャンポリー、第6回日本ジャンボリー、そして第14回世界ジャンボリーが開催されました
1978年 昭和53年
この年に、初代佐野理事長から第2代岩瀬理事長にバトンが渡りました。
第7回日本ジャンボリーが静岡県御殿場で行われ、390名が参加しました。
この大会は、設営時に雨、撤営時に雨という大会で、撤営時に濡れた靴をたき火に当てて乾かしているときに半分燃えてしまって、ひもで足に縛り付けてかえってきたスカウトがいました。
1979年 昭和54年。
この年10年ぶりに県カブラリーが復活、日立市かみね公園で行われました。
1981年 昭和56年。
県連創立30周年記念式典。第10回県キャンポリーが勝田市 陸上自衛隊演習場で行われました。
1982年 昭和57年。
第8回日本ジャンボリーが、宮城県南蔵王で行われ、当県から447名が参加しました。
翌年の1983年 昭和58年。
第15回世界ジャンボリーが行われました。そして第6回カブラリーでは、3000名ものスカウトが水戸・千波湖に集まりました。
1984年 昭和59年。
この年に第2代岩瀬理事長から第3代橋本千代寿理事長にバトンが渡ります。
翌年の1985年 昭和60年。
筑波で行われた「科学万博」開会式では、125名のスカウトが奉仕しました。そして夏には第1回関東キャンポリーが群馬県・相馬が原で開催され1,005名が参加いたしました。
この大会で各県連盟がエールの交換を行ったのですが、このとき茨城県連盟が行ったエールが、あの「HOWDY IBARAKI」です。
1986年 昭和61年。
第9回日本ジャンボリーが、宮城県・蔵王で行われ、542名が参加。このときも台風が直撃大変だったそうです。
また、この年から茨城県連盟主催のシニアースカウト海外派遣が行われ、1990年までにハワイで5回、1997年までにオーストラリアで第4回実施されました。
1987年 昭和62年。
第7回カブラリーがつくばの洞峰公園で、第16回世界ジャンボリーがオーストラリアで開催されました。
1989年 平成元年。
第12回県キャンポリーが那珂町、日本原研所有地で行われました。
このときも台風の直撃を受けてスカウトは全員近くの小学校に避難したのですが、一部のリーダーは留守番で残り、台風の凄まじさを体験することになりました。
1990年 平成2年。
この年に初代徳川連盟長から第2代関連盟長に、第3代橋本理事長から第4代吉田理事長にそれぞれバトンが渡りました。
そしてこの年 第10回日本ジャンボリーが新潟県妙高高原で開催され、540名を派遣いたしました。
1991年 平成3年。
県連40周年記念式典が行われました。
また、第8回カブラリーが下館市総合公園で行われる予定でしたが雨で中止になってしまいました。 
そしと第17回世界ジャンボリーがお隣の国、韓国で開催されました。
1992年 平成4年
この年、茨城県連盟で最初の富士スカウトが誕生いたしました。
1993年 平成5年
第13回県キャンポリーが勝田で行われました。また、第1回アセアン・ジャンボリーがフィリピンで開催され茨城から5名が参加しました。
1994年 平成6年
第11回日本ジャンボリーが大分県久住高原で行われ、538名が参加いたしました。
1995年 平成7年
第9回カブラリーが「風と仲良し元気村」をテーマに笠松運動公園で開催されました。
また、第18回世界ジャンボリー(オランダ)には14名が参加しました。
1996年 平成8年
この年に、第4代吉田理事長から第5代刈部理事長にバトンが渡されます。
そして翌年1997年 平成9年
第14回県キャンポリー兼第4回関東キャンポリーが群馬県相馬が原で開催され763名が参加しました。
また日本連盟では75周年記念が行われ、当県からも多くのスカウト・リーダーがステージに立ちました。
1998年 平成10年
第5代刈部理事長から第6代川又理事長にバトンが渡ります。
第12回日本ジャンボリーが秋田県森吉高原で行われました。
翌年1999年 平成11年
第10回カブラリー第1回ビーバーラリーが、笠間で行われ、晴天の中笠間の公園にスカウトたちの喚起の声が響き渡りました。この大会は今までのイメージを突き破り、新たな茨城県連盟を感じさせるものでした。
そして20世紀最後の年 2000年 平成12年。
第6代川又理事長から第7代佐野理事長にバトンが渡されました。
 この年、第5回ベンチャー大会 が大分県久住高原で行われ、また日本連盟主催日米スカウト交換計画派遣が行われました。
2001年 平成13年。
第15回県キャンポリーが県連創立50周年を記念して記念大会として行われました。
この大会のテーマは 「感謝と友情そして未来へ!」。このキャンポリーで私たちが県連の先輩たちから受け取った茨城のスピリッツとメッセージは、これからも脈々と後輩スカウトたちへ受け継がれていくことでしょう。