日本への伝播と発展

 現在、世界には、1,600万名のスカウトがいる。これまでに2億5,000万人の人たちがスカウトを経験し、社会のあらゆる分野に著名な人々を送り出している。

 「スカウティング・フォア・ボーイズ」の出版によって広まったボーイスカウト運動は、当時英国に滞在していた秋月佐都夫(あきづき さとお)公使によって日本に紹介された。当時の文部大臣牧野伸顕は北条時敬(ほうじょうときゆき)にボーイスカウトの調査を依頼し、北条はイギリス各地を回りこの運動の成功の要因を調べ、書物や制服等一式を買い揃えて翌年帰国した。帰国後彼は各地でスカウト教育法の講演を行うと同時に自らも中学校の校外活動にスカウティングを取り入れた。

 また、ボーイスカウト運動に多大な関心を寄せていた乃木希典(のぎ まれすけ)大将は1911年に渡英した際に、ロンドンでボーイスカウトの集会を視察しベーデン-パウエルと会見した。そのときスカウトに行ったスピーチは後にベーデン-パウエルの書物にも引用されるほど賞賛された。

 1912年にベーデン-パウエルが来日し6日間滞在した。このとき横浜の18名の外国人子弟により組織するグリフイン隊のスカウトが出迎えたが、まだ正式なボーイスカウト組織はできていなかった。日本で最初のボーイスカウトは1914年(大正3年)に発足した東京少年団であった。続いて京都、旭川、沼津、静岡、大阪、福岡、富山等で、少年団という名称で発足した。1916年に滋賀県雄松岬で初のキャンプが実施された。

 1920年(大正9年)、ロンドンでの第1回世界ジャンボリー(33ヶ国8000名参加)には、日本からも3名が参加し、その時にベーデン-パウエルは世界のチーフスカウト(総長)に推戴された。これを機に、世界ジャンボリーは4年目ことに、国際会議は2年目ことに開催されることが決められた(1985年第30回世界スカウト会議において、以降の世界スカウト会議は、3年ごとに開催することになった)。

 1921年(大正10年)皇太子裕仁親王殿下(昭和天皇)が英国をご訪問された際に、ベーデン-パウエルを謁見。エジンバラのスカウト大会をご親しくご覧になられ、イギリスのスカウト運動を讃え、日本のスカウト運動が発展することを期待するとお言葉をのべられました。この模様が特電によって報道され、連盟結成の気運が高まり1922年4月に全国組織である少年団日本連盟が結成され、東京で第1回日本ジャンボリーが開催された。

 しかし、満州事変、第2次世界大戦へと世の中が激動する中、平和の運動である日本のボーイスカウト運動は軍部により解散させられてしまった。

 戦後1947年(昭和22年)1月には、早くもGHQの許可を得て東京と横浜でスカウト活動を再開し、1949年(昭和24年)4月には財団法人ボーイスカウト日本連盟として財団設立認可受け、9月には全日本ボーイスカウト大会を開催した。翌年7月に国際事務局に再登録して日本のボーイスカウトは国際復帰をしたのである。